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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[172]母の死後、メナヒム兄弟は匈奴兵になった

第7章 鉄剣作りに挑む
第4節 トゥバに辿り着いたニンシャ人

[172] ■2話 母の死後、メナヒム兄弟は匈奴兵になった
「わしら兄弟は成長し、職も得た。金を掘る川筋を守るのが仕事だった。しかし、よいときは長くは続かない。さあこれからというところで厳しい冬に遭って畜獣ちくじゅうを失い、金を掘る仕組みも雪と氷にやられて、母は失意のうちにこの世を去った。
 母の『祁連キレン山が見えるところに』という望みをかなえようと、父はその地まで遺体を運ぶと言い張った。それは無理だとみなで説得したが、決してあきらめようとしない。
 わしら三人は母を載せた荷車にぐるまをロバに引かせて、濡れた川床で泥濘ぬかるみに埋まり、枯れた松葉に足を滑らせながらどうにかタンヌオラを越え、丘の上に墓を掘った。
 実に見晴らしのいいところだった。
『我ら一族の先祖は、いつも、こういう遠くに山を望む土地にあこがれて各地を旅してきたのだ』
 と、口数の少ない父がわしら二人に語った。ニンシャでの一族の集まりのたびにそう聞かされて育ったのだろう。
 父はもう動けなかった。
『金堀りはもういい。ここで休みたい』
 と言い、母を埋葬した後にその場にとどまると決めた。

 わしら兄弟は近くで狩りをして得た鹿肉を、小川に続く道で見つけた石壁の穴に下げた。獣に取られないようにと岩穴の前に平たい石を重ねて積んで石室のようにして使うトゥバ人のやり方だ。
 その後で、人が行き来する山道がどうにか木の間に見えるところを選んで木を伐り倒し、何日か掛けて小さな木の小屋を建てた。ようやく終わった夕暮れに、小川に下りて水を汲み、母の墓石のわきに三人で座ってささやかな別れの食事をともにした。
 すべてを終えて安堵したために思い出したのだろうか。父が、『昔、ここで起きたことだ』と語り出した。
『母さんと一緒に、幼いお前たちの手を引いてハカスへと向かっているときに、そこの道を通った。苦しい旅路だった。わしらはいまと同じようにして神に感謝しながら小川で水を使い、この辺りに散らばって休んでいた。みな、飢えがもう耐えられないというところまできていた。
 隊商カールヴァーンがこの先の峠を越えてきたので挨拶して道を譲ると、その一行にきんを商う同族の者がいて、兄を知っていると言う。ずいぶん前にハカスを出て、いまはトゥバで金を掘っているはずだと教えてくれた。
 わしらが百人もの集団だと知ると驚き、食料を分けてくれた。ありがたかった。神が遣わしてくれたその商人に救われて、わしら一族はタンヌオラの北の原へと、行く先を変えたのだ』
 と語った。初めて聞く話だったが、そう言われてみればと、遠い記憶の奥底に残っているような気がした。そしてそれが、父から聞く最後の話になった。
 翌朝、ロバと荷車と道具と手持ちの食糧をすべて残し、弓矢だけを身に付けて、カーイとわしは父に別れを告げた。生きている父の顔を見たのはそれが最後だ。
 もうトゥバに戻ろうとは思わなかった。かねて兄弟で話し合っていたように、きんを西に運ぶ顔見知りの匈奴の騎馬隊を探してアルタイ山の東麓を南に下った。

 二年後、その父が亡くなったと部隊の者に知らされて弟のカーイと急ぎ、母の隣りに埋めた。その弟も、いまは妻と隣り合って傍らに眠る。エレグゼンにとっては父母の墓だ。バフティヤールの実父ちちの墓もそこにある。我ら一族の墓地だ。
 このあいだ、二十五年ぶりに詣でた。エレグゼンとバフティヤールも一緒だった。
 母の死はわしら兄弟の運命を変えた。匈奴の仲間に加えてもらい、わしだけがいまも、こうしてここにいる……。
 だが、ニンシャの人々はいまもタンヌオラの北の原に留まって、自分たちの技を活かして日々を送っている。この間、わしらはその様子を見てきた。知り合いも一人、二人ではなかった。シーナのニンシャを出る前からずっと助け合ってきたイシク親子にも会えた。ありがたいことに、みなトゥバの地で生き抜いていたのだ」

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