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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[004]十三湊へ 

第1章 西の海を渡る 
第2節 突然の旅立ち

[004] ■1話 十三湊とさみなとへ              【BC92年5月15日】
 強い南風が吹いて夏が近いと告げる朝、ナオトは少し早く起き出して母に声を掛け、十三湊とさみなとまで急いだ。前から母に頼まれていたのを思い出し、一度、姉のカエデが嫁いだ先を訪ねてみようというのだ。
 ナオトは、長い髪を丸めて頭の上で結っている。麻布で作った尻が隠れるほどの長さの衣を前で合わせ、麻布をったひもで留めている。袖はない。
 
 長い袖の衣も持っているが、それは秋に入る頃に腕まくりして着る。同じ長袖を冬にも毛皮の下に着る。
 下穿したばきは膝の下までと短く、上衣の下に隠れて見えない。この里では、みなが同じような格好をしている。
 ――着るものはこのままでいいか?
 と思ったが、よく見ると汚れがひどい。それに、西の海は風が強いと思い直し、母が洗ってしまっておいてくれた袖のある方に替えた。
 この時季、ナオトはいつも裸足はだしなのだが、義兄あにのカケルに初めて会うのだからと、削ったホウの木の底にサメの皮を張った突っ掛けを履いて出ようとした。しかし、これでは走れないと考えて、父がのこした鹿革シカがわ浅沓あさぐつの方にした。
「その袖では暑苦しい。背負子おいに結んでいけぇ」
 とそばで母は言うが、ナオトは気にならなかった。
 ――暑くなったら脱げばいい……。
 友のカジカが「大きすぎる」といつも言う背負子しょいこには、善知鳥の里の近くで採った山の物や海の乾物が収まりきらないほどに詰め込んである。
「向こうも海の近くだから……」
 と、母に言っても聞こうとしない。背負子にわえて下げたヒョウタンの水呑みづのみは、父がまだ象潟きさがたにいたときから大事に使っていたものだ。
 訪ねて行くついでに、十三湖とさのうみから西の海にかけていくつかあると聞いているみなとを見たいとナオトは考えている。その日からの数日、漁も、狩りも、里を挙げて行う大掛かりなものはないはずだった。
 ――ときは自分のために使える……。

 十三湊へは、まず善知鳥うとうの浜を北に行き、川まで出たら左に折れて、川沿いの小道を上って西山を越える。しばらく行くと左手の森の上に岩木山いわきのやまが現れる。坂の上から見下ろすと、その麓からはるか北の方まで大きな水辺が広がっているのが見える。十三湖だ。
 白上しらかみの山々――のちにいう白神山地――と岩木山に降る雨や雪融ゆきどけの水は岩木川に注ぎ、北に向かって流れる。
 この川の流れ着く先が、西の海の北寄りにある南北に長い大きな十三湖で、うみと呼ばれてはいても潮と風によって運ばれてできた砂洲さすが海を隔ててできたかただ。川の水と塩水とが入り混じり、ときどき閉じてしまう水戸みとと呼ぶ長い砂州のはしが、潟から外海そとうみに通じる路を舟人ふなびとに教える。
 十三湖の東の岸には小高い丘が南北に連なっている。そのうちの一つの南側が深い入り江になっていて、大きな舟がとまりにしている。そこが十三湊とさみなとだ。

物語の時代の十三湖の姿

 善知鳥の海から西に向かって来たナオトは、坂を下って突き当たった岩木川沿いの道を北に折れた。吹き上げる風を受けて群れ飛ぶウミネコがアーオ、アーオとうるさいほどに鳴いている。
 南北に通っているこの道は、岩木川に沿って広がる水田みづたで作った籾米コメを十三湊まで運ぶのに使う。そこで、川沿いの人々はコメの道と呼んでいる。

 この道を北に行った正面の小山の陰にある十三湊と善知鳥うとうの里との間は、行き帰りするにしても、ナオトの脚ならば半日と掛からない。そこで、中の何日かは一人で過ごせる。

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