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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[036]ペルシャ、バクトリア、ソグド

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第5節 バクトリアについて
 
[036] ■2話 ペルシャ、バクトリア、ソグド
 二晩目も、ナオトとヨーゼフの会話は弾んだ。
 ときどき、ナオトが口を挟む。たいていは、いま耳にしていることを、自分が見知っているものと比べてなんとかに落ちるようにと発する短い問いだった。
 ヨーゼフはナオトの呑み込みの早さに舌を巻いた。しかも、前に一度口にしただけなのにそのソグドの言葉をしっかりと覚えている。
 ナオトが時折り発する問いは、そのものの意味について深く考えていないと答えられないような鋭いものだった。
 しかし、訊いている方のナオトは、おのれが心に描いている通りのことを、本当にヨーゼフ爺さんは話しているのだろうかという思いがぬぐえなかった。ヨーゼフの話が途切れるたびに、ナオトの中でいろいろな思いが走った。
 ――ヨーゼフが話しているソグド語は、もともとはペルシャという国の言葉だという。ペルシャという大きな国の中にはソグドという人々もいて、その人たちが話す言葉がソグド語か……。
「ペルシャには、オアシスと呼ばれる人が多く集まるところがいくつもある。水場の周りにできたムラで、もともとは、昨日の地図の一番左に描いてあったエジプトという国の言葉だ。
 わしが生まれた土地はバクトリアだ。そこにも人が多く住むオアシスがたくさんある。遠い遠い国で、歩くのであれば一年は掛かる。それに、途中でいろいろな国に寄らないといけない。そこまで行くには、どうしても馬が必要だ。しかも、一頭ではなく、たくさんの馬が」
 ――水が出るムラを次々に渡ってきたので、ヨーゼフ爺さんは生まれ育ったバクトリアも『通り過ぎた』と言ったのだろうか……。
「馬は犬を十頭合わせたほどに大きい生き物だ。その馬に乗って山をいくつも越える。とにかく遠い。寒い。風が吹く。雷が鳴る。大雨が降る。雪が降り、氷が降る……」

 なんとか理解させようと、ヨーゼフは身振りを交えて熱心に話した。初めて聞く言葉のうち、これはというものをナオトが一つひとつ覚える。
「さらに西に行けば、暑くて乾いた土地が続く。そこではひどい砂嵐が吹く。水のあるオアシスを辿たどりながら行く。そこでは水は泉となって地面から湧いていて、誰でもむことができる。しかし、時によっては、井戸端で水を求める代わりに黄金きんを渡すことがある」
 ――水を飲むのに、代わりに何か渡すものが要る? 何かのたとえ話だろうか……。
「旅路のどこにも悪い人がいる。山にいる。川にいる。海にいる。マチにいる。村にも井戸端にもいる。しかし、善い人もいる。山にも、川にも、海、町、湊にも……」
「マチとはなんですか?」
「人が集まって住むところだ。石や土の塀で囲まれていることがある。住む人の数が村よりも多いので、町というふうに別の名で呼んでいる。人の数がもっと多ければ国だ。沙漠を越えて西の方に行くと、高い塀で囲まれた大きな町ひとつを国ということがある」
「では、バクトリアは町ですか?」
「……。まあ、そうだな、ナオト。人が多いということでいえば町だ。そして国だ。ただ、バクトリアの中にバクトラという町があって、そこが一番栄えている」
「……?」
「大きな獣は、馬やウシだけではない。ラクダという大切な獣がいる。とにかく力が強くて丈夫で、水なしで何日も生きていける。沙漠という水のない原を越えて多くの荷物を運ぶには、どうしても、ラクダが何頭もいる。
 ラクダの背中にはこぶがある。一つこぶと二つこぶ。土地によって違う。わしが生まれたバクトリアのラクダはみな二つこぶだ。それに合わせて鞍の形と高さが違う。だから、どこの隊商カールヴァーンかは遠目でも見当が付く」
「カールヴァーン……」
「遠くの土地から山や草原、ときには沙漠を越えて荷物を運んでくる一団のことだ。もともとソグドの言葉だが、フヨの入り江でも使われている」
 ナオトはこの隊商という言葉も覚えた。
「ラクダは、このフヨの入り江でもときどき見る」
 と、ヨーゼフ爺さんが言った。
 ――ならば、明日の朝、探してみよう。

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