見出し画像

『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[164]ナオトに託された鋼作り

第7章 鉄剣作りに挑む
第1節 砂鉄を焼く

[164] ■3話 ナオトに託された鋼作り
 それまで匈奴では、鉄作りにかかわる細部を、なんと、奴隷として無理矢理に連れてきて匈奴に従わせているテュルク人やシーナ工人たくみに決めさせていた。
 砂鉄などの材料選びや、それを溶かすのに使う木炭と炭焼きだけではない。鉄窯の立地、風を送るフイゴの形と大きさ、窯をどの型にし、大きさはどうするか。その窯を何を材料にしてどう作るか。そのための人数をどう揃えるかなどのすべてをだ。
 戦さの行方を決める武器の製造を、そのようにおろそかにしていいのかという思いは匈奴人の誰もが持つ。かといって、そう言うお前がやってみろとなったのでは困る。奴隷の真似事まねごとをしたいとは、匈奴たる者、誰も考えはしない。
 ナオトは違った。どうしてもやってみたかった。
 ナオトは客人まろうどだ。奴隷ではないが、かといって匈奴でもない。ナオトはそれをよくわきまえていた。
 匈奴の部族間の力関係を決め、敵の漢人に対抗する上で大事な素材であるボルドの製造を「れにやらせてみてくれ」とは、友であるエレグゼンの伯父の部族内での力が相当に大きいと知ってはいても、さすがに言い出すことができなかった。

 しかし、そのときは思っていたよりもはるかに早く訪れた。
 メナヒムは、丁零テイレイとトゥバで見聞きしてきたことのあらましとナオトがまとめた鋼作りの話を、エレグゼンたち二騎が戻る前に左賢王に詳しく話していた。
 エレグゼンたち二騎が道具類をもって戻り、左賢王がそれを単于に伝えると、狐鹿姑コロクコ単于は、「ならばそのヒダカびとにやらせてみよ」と命じた。
 このところ日射しに恵まれ、ほどよく雨も降って、草原の草の育ちも、春先に生まれた畜獣の子の育ちも近頃になくいい。「余は匈奴の王、貴公は漢の王」と記した意気軒昂たる手紙を漢人の使いに持たせて、漢王の劉徹リュウテツに送り付けたところだ。単于の気持ちは高揚していた。
 単于ゼンウは慎重な人物だった。しかし頑迷ではなかった。矢を射れば飛ぶ。風でまとかられたら、その分、次はやや風上かざかみに向けて射ればよい。できるという者にやりたいようにやらせてみるのは、単于にとって、それと同じことだった。
 メナヒムは、この地で鉄とはがねを作りはじめることをいまのところは匈奴のうちでも伏せておきたかった。ましてや、匈奴内にある漢の降将やその付き人として入り込んでいる漢人にはどうしても隠し通したい。
 そのために、単于のめいを受けてナオトに任せるにしても、場所選びには自ら出向でむかねばと考えていた。しかし、無理いはできない。それはナオトがどう出るかに掛かっていた。

 七月。ナオトの一日一日はまたたく間に過ぎた。
 砂鉄を焼いて鉄のようにした。次に、その欠片かけらを熱して叩いてみた。鋼にするとき肝心なのは強く叩くことだと、自らやってみてわかった。しかし、そうしてできた鋼のようなものの量はわずかだった。
 エレグゼンと話し合い、ハミルで買った重い鉄の板を受け台にしてみようと、ラクダの背に掛けた大き目のへーべ――袋状の運び具――になんとか積んで北の疎林まで運んできた。
「またこいつの世話になるとは思ってもみなかったな」
「そうだな……」
 そう言って、二人で笑った。
「単于が、ヒダカ人にやらせてみろと言ったということだ」
 エレグゼンが馬上で告げた。
「……」
「どう思う?」
「どう思うもない。もう、すでにはじめているではないか」
 わざわざ運んできた鉄の重く平たい板は、叩くときに下で受ける台としては使いにくかった。そこで、もとの平石に戻した。

第1節4話[165]へ
前の話[163]に戻る

目次とあらすじへ