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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[047]カケル出航後の浜で

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第8節 フヨに残ったナオト
 
[047] ■2話 カケル出航後の浜で
 浜の仮り屋に戻るとドルジがいた。ヨーゼフの蔵で何度か挨拶したことのあるドルジは、今朝もいつもの布で頭を覆っていた。ソグド語を話すドルジはハヤテのために通詞つうじをしているという。
 前から、一度ゆっくりと話をしてみたいと思っていたナオトが覚えはじめのソグド語で声を掛けた。
「ドルジ、おはよう」
 頷いたドルジが、
「おはよう、ナオト。ここに残ったのか?」
「ああ、カケルの舟が戻ってくるまでの間、ここにいる。ハヤテのところに置いてくれるそうだ」
「そうか、よろしくな。カケルは、この先十日間は舟の上か? 無事に着けばいいが」
「本当にな……。だが、カケルなら大丈夫だろう」
 そう応じ、よく考えてから切り出した。
「前から訊いてみたいと思っていたのだが、ドルジはなぜこの入り江にやって来たのだ?」
 これまであまり言葉を交わした覚えのないナオトが、たどたどしいソグド語で発した突然の問いに少し迷いを見せたドルジだが、まあ、いいだろうという気持ちで答えた。
「吾れは、世話になったクルトに誘われてここに来た。その前は、フヨの西にある山の麓に住んでいた」
「そこで生まれたのか?」
「いや。吾れの一家は、長い間、セイという国にいた。ここから見てだいぶ南にある、シーナの海際の国だ。吾れはそこの生まれだ。そのためか、磯の近くでしおの匂いを嗅ぐと、なぜか斉の磯で遊んだときのことを思い出す。八つのときに吾れはその斉を追われて北のフヨまで逃げて来た」
「逃げた……? 一家で逃げたのか?」
「そうだ。そうしないと殺されると祖父が言った」
「殺す……? なぜ殺す?」
「人と人は、いつも争っている。鮮卑センピエンがそうだ。シーナの北と南、沙漠ゴビの北と南もそうだ。人も、国も、戦ってばかりだ。理由わけなどいらない。邪魔だ、役に立たないとなれば、追い出し、ひどいときには殺す。そういうことだ」
 若者が使うソグド言葉ゆえにそう感じたものか、ドルジの口調は激しかった。それに、出るのはどれも知らない国ばかりだった。
 ――昔、何かあったのだろうか?
 思わず、ナオトが口にした。
「ヒダカにも力づくでわれを通そうという者はいる。しかし、人を殺す者などいない!」
「……?」
「見たことがないのではない。そもそもいないのだ……」
 ――人を殺すことがないとは、どういうことだ?
 ドルジは首をかしげ、当惑したような顔を見せた。
 そのときハヤテが小屋の中から声を掛け、ナオトはこの北にあるもう一つの小さな入り江まで小舟で行くことになった。
「ドルジ、また話そう……」
「ああ、そうだな」

現代の地図上で見るナオトとドルジの物語の舞台

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