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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[018]海を渡りたいと頼むナオト

第1章 西の海を渡る 
第6節 岩木山の鬼

[018] ■2話 海を渡りたいと頼むナオト
 その夕べ、問わず語りに、大陸むこうのおかに渡るときの舟の上の様子をカケルが話した。カエデにとっても初めて聞く話ばかりだった。夜、無理にも休もうと、潮に濡れた身体をぬぐって、舟の暗い小屋の中に横たわるときが一番つらいと言って、ちらっとカエデを見た。
 ナオトは目を輝かして聞いていた。西の海を渡る長く苦しい航海の後に、「入り江の家並やなみが朝靄あさもやをついて現れる」とカケルが語ったとき、自分の目で見たことのように、その光景がまざまざと心に浮かんだ。
 土鍋で煮た玄米コメ粥と焼き魚、青物の塩漬けに岩海苔のりの汁という善知鳥うとうでは口にしたことのない立派な夕餉ゆうげだった。そっとカエデの手元を見ると、手にしているのは、およそ五年前、家のそば土窯かまで焼いて、カケルのもとに行くと決めたカエデに渡したくぼてだった。
 ――他にも持つものはあったろうに、こんなものを荷に入れてここまで背負って来たのか……。

 食事を終えて、ナオトがそこにいることにようやく慣れてきた様子のカケルが、
「善知鳥の暮らしはどうだ? 義母はは達者まめか?」
 と穏やかにいたとき、いつということはなく、また訪れたときにでも頼んでみようと思っていたナオトから、そのような心づもりは全くなかったのに、
「カケル兄、大陸むこうに連れて行ってくれませんか!」
 という言葉が口を突いて出た。カケルは、先ほどと同じようにじっとナオトの目の奥を覗き込んでいたが、脇に座るカエデがただ黙ってうつむいているのを、
 ――仕方がない、
 という意味にとったか、一言ひとことで答えた。
「いいだろう」
 こうしてナオトは、義兄あにの舟で西の海を渡ることになった。

 次の朝からナオトは、あちらこちらの荷主のもとを訪れるカケルに付いて回った。荷車も引いた。カケルは、口にはしなかったが、力の強い、よく気を配る男だなと見定めた。
 その夕べ、三人で再び食卓を囲むとき、自分の良人おっとが弟をどう受け入れたかをカエデはすぐに感じ取った。
 数日ののち、これまでに見たことがない鉄製の鋭い小刀こがたなをカケルがくれた。フヨの国の作りだという。ナオトはおのれの心の動きを隠そうともせず、嬉しそうに両手で受け取ると、頭を下げて礼を言った。
「水気はすぐにぬぐえよ……。吾れは大陸むこうで、その小刀のもとになるテツを探している。いまのところヒダカでは作っていないので海を越えて運んでくる」
「テツ……」
「その代わりに、大陸に持っていくのはいまはコメだ。そのコメを集めに十三湖とさのうみの周りをたずねて回ると、『稲穂いなほみ取るのにいい鉄の道具を探してきてくれないか』とよく頼まれる。ヒダカでは、いまは石の包丁を使っているのだ」
「……」
「その鉄の小刀は、それに使えないかと思い、海を越えて持ってきたものの一つだ」
「これで稲穂を摘む……」
 ――少し、するどすぎるのでは……、
 とナオトは思った。しかし、よくは知らないので口にはしなかった。
「穂を摘むことはせずに、実った稲からもみだけを落とすのでもいいという。ナオト、お前はくしを見たことはあるか?」
 そう言って、傍らのカエデを見た。ナオトが応える。
「女が髪をけずる、あの櫛ですか?」
「ああ。大陸むこうには、鉄でできた櫛のような形をしたものがある。それが使えないかと思い、これも二つ三つ持ってきて荷主にぬしに渡してある」
「……?」
「ああ、その通りだ。道具一つとっても、いろいろなものが海を渡る。そう言いたいのだろう?」
「はい!」

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