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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[056]クルトがいた鮮卑の騎馬隊

第3章 羌族のドルジ
第2節 山東半島の羌族
 
[056] ■3話 クルトがいた鮮卑の騎馬隊
 ナオトがフヨの入り江に着く十六年前。
 一家五人でヒンガン山脈の南麓に着いた後、まだ子供だったドルジは、生きていくために周囲の人々と交わり、そのうちに羌族の言葉と似た語彙が多い匈奴語を覚えた。鮮卑の言葉も少しずつ話すようになった。
 父母を助けてロバや馬を育て、東に半日行ったところに屯営とんえいを張っていた鮮卑の騎馬隊に納めて、代わりに食糧を手に入れた。
 狩りをし、また、川の近くに広がるヒエの原にみなで出掛けて行って、見よう見真似で小粒の実を集めるなどしてどうにか暮らしを立てていたが、祖父が亡くなった翌年、大雪に見舞われた冬に、ドルジの一家の食糧はついに尽きた。
 水だけで何日かを過ごし、このままでは餓死するしかないとなって騎馬隊に助けを求めに行ったとき、そこにはいつも部隊に馬を受け入れてくれるクルトがいた。その口利きで一家は救われ、一冬ひとふゆ、どうにか命を繋いだ。
 春が来ると、ドルジは誘われるままに鮮卑の騎馬隊に加わり、家族の元を離れて南にあるエンの国と戦うことになった。入隊すれば、多少の銀とムギをくれるという。ドルジに否応いやおうはなかった。
 一家が生き延びるために騎兵になったドルジの闘いの日々は、一家を救ってくれたクルトが肘と背中に怪我をして鮮卑の騎馬隊を離れる日まで続いた。
 頭に負ったおのれの傷と、兄と慕うクルトの傷をいやさなければと考えたドルジは、春になるのを待って燕との境にある屯営を離れ、迷わず父のもとに向かった。

 ヒンガン山脈の麓で二年ぶりに再会した父母はどちらも元気にしていた。姉は匈奴の隣人の息子との間に子を授かっていた。
 顔色があまり優れないとはいえ、立派な騎兵に育った息子を見たドルジの父は、「生きていたか……」と涙を流して喜んだ。ドルジはそれまで、父が涙するのを見たことがなかった。頭の左後ろにある傷は布で覆って隠し、未だ両親には見せていない。
 秋色に染まった木の葉もそろそろ落ちはじめるかという頃だった。
 傷が癒えたクルトは、この地で暮らしていこうと決めてドルジの一家を手伝っていた。牧場まきばには何頭か良い馬がいた。斉の国からドルジの祖父が乗ってきたという雄馬は、誰が見てもわかる良馬で、フヨの馬と掛け合わせて増やし、育てた。一家はこの地に落ち着いて以来、ずっとこれを続けている。

 ドルジの家族が生き延びてこれたのは馬とロバとを育てていたためだと、クルトは誰よりもよく知っている。何よりも、長く騎馬隊にいたクルトは馬について詳しく、部隊がどういう馬を欲しがるかを知り尽くしていた。
 ――吾れは怪我をして弓が引けない。もう部隊には戻れないだろう。だが、ここならやれることは多い。
 そう思い、若馬を馴らし、馬とロバの手入れをし、ドルジとともに牧場の柵と馬小屋を直すなどして冬に備えて働いているところに、ヨーゼフがラクダを引いて現れた。そろそろ春に生まれた仔馬が育つ頃だと、ムギと交換しにやって来たのだった。
「おおっ、クルトじゃあないか? こんなところで会うとは……」
「ヨーゼフ……。なぜ、こんな西まで?」
 クルトとヨーゼフは古い知り合いだった。およそ七年前、商いのために鮮卑の部隊を訪ねて来たヨーゼフから「どこか、鉄を作っている窯場は知らないか」と尋ねられて、営地から北に一日のところにある鮮卑の鉄窯とその近くの鍛冶場まで案内したことがある。
 東の部隊に属する騎兵たちは、秋も終わりに近づくと「また、春に」と仲間に声を掛けてそれぞれの家族のもとに戻り、牧地で冬への備えなどをして過ごす。屯営に残っていた独り身のクルトは、気楽にヨーゼフに付き合った。
 その頃のヨーゼフは、この先どうしようかと迷っていた。
 弟のダーリオからの便りを読んで、一族の者はもうこの地にはいないと思い知り、しかし、もしかして弟が戻ってきたときのためにと、息子と別れて匈奴の東からフヨの海辺に移り住んだ。ダーリオが立ち上げて残していったフヨの南にある玻璃ハリの窯場を切り盛りするなどしてみたが、心はみたたされない。
 気晴らしにと、前に手掛けたフヨや鮮卑を相手のアルヒや駄馬の商いを各地で続けているうちに、これらの部族とともにいる羌族の中に、おのれのような胡人こじんと姿形の似た者が混じっているのに改めて気付いた。前から気になっていたのに、深く考えることなく見過ごしてきたのだった。
 ソグド語を話す者を探していろいろ尋ねると、自分のような顔立ちの羌族は漢の西の山地や東の海際に行けば多いと言う。
 ヨーゼフは、自らの一族となにがしかの関係があるのではと見込み、羌族の者を探し出しては、商いと称して助けるようになった。それでも、確かに同族だと言える者に出会うことはなかった。
 そうしたときに、ダーリオの便りを運んで来てくれたヒダカの舟長ふなおさミツルから「鉄を作る窯を知らないか?」と尋ねられた。いい鉄窯を探そうと以前から思っていたヨーゼフは、馬の商いのために訪れた鮮卑の東の騎馬隊でかねて顔見知りのクルトに声を掛けたのだった。

 その後、ヨーゼフは、前に住んでいた村に近いこともあってそのヒンガン山脈東の屯営を訪れてみたものの、南での戦さに出たというクルトには会えず仕舞いだった。

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