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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[026]入り江の胡人

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第2節 ヨーゼフ
 
 [026] ■1話 入り江の胡人
 昼前。
 訪れた蔵のぬしの戸口でカケルは、奥に座っていた目つきの鋭い年寄りに「ヨーゼフ」と呼びかけ、ナオトを引き合わせた。
 黄色がかった髪を何かの革の紐で留め、頭には帽を載せている。細かながらのきれいな布で作った上衣をゆったりと身に付け、それがひげを蓄えた首元から膝下までを覆うほど長いために、立ち上がると、黒い下穿きは衣に隠れてよく見えなくなる。足には指だけを覆う見たことのない形の履物を突っ掛けている。
「アヤーブ。これは、これは」
 ヨーゼフは顔を上げてナオトを一目見るなりそう声を上げた。意味のわからないナオトは思わずカケルを振り向いた。
「はっきりとしないが」と前置きして、
「これはこれはと、何か驚いている。なぜか訊いてみるか?」
 野太い声で「ケカバール?」とヨーゼフに向かって言った。ヨーゼフが何とかと答え、「んっ」と頷いたカケルが言う。
「どうも、お前の顔貌かおかたちのことらしい。昔別れたままのダーリオと似ていて驚いたと言っているようだ。ダーリオというのは爺さんの弟の名だ」
 どう答えていいやらわからないナオトは、黙ったまま、初めてみる顔立ちの年寄りを見ていた。その異人の老商人は、両手でナオトの肩をしっかりとつかみ、次に両手を取った。なすがままにして、ナオトはなおも黙ってその場にたたずんでいる。ヨーゼフは、今度は両手を挙げると、腰を折って頭を下げ、何か祈りのような言葉を呟いた。ナオトは忘れる前にと、老人の名前を心の中で繰り返した。
 ――ヨーゼフ、ヨーゼフ、ヨーゼフ……。

 是非にと誘うので、ナオトはその夕べ、ヨーゼフの家で食事にばれることになった。ふと、土産みやげもないのにと思った。それに言葉も通じない。
 しかし、すぐにいつものナオトに戻った。なんといっても大いに興味があるし、爺さんの顔立ちも、聞いたことのない言葉の響きも面白い。言葉の意味などその場で覚えればなんとかなる。
 ハヤテが戸口まで迎えに来て、カケルは老商人の誘いを「申し訳ないが」と断り、
「北の湖にコメを届けてくる」
 と、ナオトに告げた。そこの湊から荷を積んだ小舟で湾をさかのぼっていき、北のハンカ湖近くにいる客の商人たちにその荷を届けて、また、帰り荷を積んで戻るという。
「遅くとも十日あとには戻るので、そのとき、またここで会おう」
 同じことをヨーゼフの言葉で繰り返し、両手で指を十本立てて見せ、それでいいかと目で問うた。爺さんがうなづくのを確かめると、ナオトに片手を上げ、ハヤテと一緒にその場を去った。

 食べたものはよく覚えていない。しかし使った鍋は、この先、決して忘れないだろう。なんと、曲げた注ぎ口と取っ手の付いた鉄製の鍋だったのだ。ナオトはそれまで土鍋しか見たことがなかった。それが、ヒダカでは見ることもまれな鉄でできた鍋とはと、心底驚いた。
 ――土鍋で済むものをわざわざ鉄で作っている。ここでは、見るもの聞くもの、どれも新しい。カケルに連れて来てもらって、本当によかった。
 鉄鍋が、大陸こちらにいる誰にとっても珍しいものだとは、ナオトはまだ知らない。
 何かの獣の骨が入っている鉄鍋の汁を火に掛けて沸かし、それに干した肉を入れて戻した。ナオトの見ている前で塩をつぶして使ったが、それはナオトが初めてみる透き通るような角張った小さな塊だった。
 その汁にヌーンというらしい薄褐色のやわらかいものを浸して食べる。ヌーンも初めて口にした。汁には歯ごたえのするチシャとかいう、ヒダカでは見たことがない青い菜が入っていた。

 食事は質素なものだった。しかし、身振り手振りと、その場で覚えた少しの言葉のみで交わした会話は、ナオトにとって本当に驚くべきものだった。
 老人は言った。会ったときに頭に乗せていた帽は、いまは外して脇に置いてある。
「若いときに東の果てまで行くと決めて旅に出て、三十年掛かってここに落ち着いた。途中、いろいろな国にとどまり、いろいろなものを商いながら旅を続けてきた」
 三十年というのはナオトの想像だ。ヨーゼフ爺さんは開いた両手を前に三回突き出し、「サル」と言った。「サッ」かもしれない。十の指を三回で三十。それに、年という意味らしいサル。だから三十年かと思った。
 ――爺さんの年齢としは六十を回っていそうだから、おそらく三十年で間違いないだろう……。
 ナオトは口数は多くないものの、呑み込みの早い若者だった。彼の若い心は新しい事物と言葉をまたたく間に吸収し、自分のものにしていった。
「いまでは膝が悪く、ヒダカの地を踏むという願いはもう果たせない。弟のダーリオはここから海路で東に向かい、いまはアマの国に落ち着いている。アマは確か、ヒダカから少し南に行ったところだろう? 同じ言葉を話すわしらの同族もいてとても住みやすいと、ダーリオがヒダカの舟長のミツルに託して送ってきた便りにあった。
 文字もじはまだ見たことがないのだろう。見たいか?」
 ――舟長のミツル?
 立ち上がって後ろの棚から取り出した幅広で大きな竹の板二枚に、何かの印がいろいろとり付けてあった。
「この彫って墨を入れたものが文字だ」
「モジ、ですか?」
 ――この人たちはこうして思いをやり取りするのだろう。吾れが母にと残す、竹炭たけすみで印を付けたカバの皮や小石のようなものだ。モジ、モジ、モジ……。
「お前は、これを彫った弟のダーリオが若かった頃に似ている。とてもよく似ている」
 伝わったかと思ってか、老人はわきの棚に飾ってあった珍しい色の大きな二枚貝に手を延ばして、一枚ずつを両手に取り、この貝のようにだと手と目でナオトに言った。
 ヨーゼフは座ったまま、腕を振って歩く仕草しぐさをして見せ、
「顔だけでなく、背格好せかっこうも、歩き方も、首をかしげるときも、腕の振り方も、何もかもが似ている」
 と言った。ナオトには、何を言っているのか、はっきりとはわからなかった。
 ――似ているということか? まあ、そんなところだろう。しかし、どう答えろというのだ……、
 と思い、「そうですか」と一言、ヒダカ言葉で応えた。
 椅子に掛けたまま左手を上にかざして老人が訊いた。
「そもそも、そんなに背の高いヒダカの民をわしは見たことがない。お前の父親も大きいのか?」

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