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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[147]メナヒムの墓参―オヴス湖を望む丘にて

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第7節 タンヌオラからオヴス湖へ

[147] ■2話 遠征24日目 メナヒムの墓参―オヴス湖を望む丘にて
 五騎は、オーログマレン川に注ぐ支流が何本も集まって流れる川床を二か所越えた。メナヒムは忘れ掛けていた光景をまざまざと思い出していた。それは、母の遺骸を運ぶ旅だった。
 ――ここを荷車で越えるのに親子三人でどれだけ苦労したか……。

 目の前の森が切れたところで山に入るつもりだった。左賢王の指示は、ここを通れということだろう。しかし、久しぶりに通る道は繁った木のために違って見える。このタンヌオラの山道をよく知る古参のバトゥと目線を交わして、この道どりでいいと互いに確かめた。
「昔、ソグド商人がトゥバやアルタイの黄金きんをハミルやコシまで運ぶとき、この道を使っていた。しかし、匈奴が堅昆キルギスを抑えているいまは行路を替え、ハカスから北を回ってイリまで行くようになった。だが、いつ元に戻るか知れない。いま通っているこの山中をよく覚えておくのだ」
 メナヒムの教えにバフティヤールが隣りで大きく頷いた。
「この辺りにはサカ人の墓が数えきれないほどある。何百年間、何十代にもわたって守ってきたサカ人の先祖の古い墓だ。そのためかどうか、タンヌオラの北の草原にいる我ら匈奴の部隊が、何人も、あのソヨンの山中でサカ人と遭遇して命を落としている。もしここから北に向かうことがあれば、そのときは決して気を抜かずに往け」
 珍しく、メナヒムが二人の若い匈奴に向かってさとした。
 ――メナヒム伯父は、何か、昔を思い出したように見えるが……、
 そう思いながら、エレグゼンがナオトに向かってささやいた。すぐ前でバフティヤールが聞いている。
「その墓には、大昔の馬具も埋まっているという」
「バグ、馬に使う道具のことか?」
「ああ、そうだ。サカ人は馬と一体だ。だから、馬に乗る道具を死者と一緒に墓に入れるのだ。吾れたち匈奴の間には、この世で初めて馬に乗ったのはサカ人だという言い伝えがある」

 タンヌオラ山中の二晩目は、見覚えがあるとバトゥが言う大きな岩の近くに泊まった。
 見晴らしのいい丘の頂上近くに立ってナオトが周囲を見回すと、少し下ったあたりに数多あまたの石を積んだ跡が見えていた。
 夜明けとともにその場を発ち、山を覆う低いマツの林をどうにか抜けて、オヴスノールの一帯が見下ろせるところまで出た。湖面が白く光っている。東西に大きく広がる土色の盆地には地平線を破るようにぽつんぽつんと小山が見えている。
 ――草地ではないようだ……。
 朝日というには少し高すぎるが、それでも、久しぶりにみるモンゴル高原に日射しが広がっていて美しかった。

「しばらくここで待て」
 最後の峠を越えたところでメナヒムがバトゥとナオトに向かって告げると、バフティヤールとエレグゼンに声を掛け、林を透かして見えている小高い丘を目指した。
 そこは、地勢から見紛みまがいようのない場所だった。すでにそうと察したエレグゼンは、ジュンガル盆地の西の果てからここまで、父たちの亡骸なきがらをどうやって運んだのだろうと考えていた。
 ――一月ひとつき近く掛かったのではないか? 伯父のメナヒムは、勇敢に戦って死んだ弟を、せめて、父母や先立った吾れの母の側に葬ってやろうとしたのだ。それにしても、長くてつらい葬送だったろう……。
 いまでは、行く手に何が待つのかを悟ったバフティヤールが、メナヒムの左隣りに並んで馬を進めた。
「あの勇敢なお前の実父ちちもここに眠っている。最後までわしを守ろうとして死んだのだ」
 メナヒムがほとんど声にならぬ声をバフティヤールに掛けた。

 替えの馬の世話が終わるか終わらないかのうちに、三騎がゆっくりと戻ってきた。エレグゼンの目が心持ち赤い。
 ナオトを守るためにかその場にとどまったバトゥが目をそらさずに真っすぐ見ているのに気付いたバフティヤールが、わずかにあごを引いた。バトゥも同じ仕草しぐさで、あの日、ともに戦い、隊長をかばって命を落とした勇士の子におのれの気持ちを伝えた。
 父母の墓をもうでたのだなと察したナオトは、控えにしてあるシルともう一頭をまとめ、顔を上げずに無言で褐色の斑馬ぶちに跨った。
 バトゥに並び掛けたエレグゼンが、しきりに、己の死んだ母をトゥバから移すときの様子はどうだったかと尋ねている。しばらく黙した後にバトゥは、低い声で告げた。
「あのときは、お前の父のカーイが指揮して五騎でタンヌオラを越えた。もともとは、お前の誕生を見届けようとトゥバまで駆け付けた五騎だった。しかし、祝うどころではなかった。産み落としてすぐに亡くなったお前の母の遺骸を運ぶことになったのだ。馬の背に載せて、その前後を五騎で守った。みな、ずっと無言だった」
 そう答えるのを聞くと、何を思ったかエレグゼンは馬を促し、今度はメナヒムの側まで行って一言三言声を掛けた。メナヒムが深く頷いた。

 その場にしばらくとどまると言うバトゥを残して、四騎は低いマツの間を抜けて南斜面を下りて行った。巨大な湖の手前に広がる大地は、やはり草地ではなかった。一面、土で覆われ、ところどころに低い木が群生している。小石に混じって、獣のものらしい骨の欠片かけらや丸まった毛のかたまりなどが落ちていた。
「あのオヴス湖からゴビまでは、広いひろい乾いた土地だ。バフティヤール、お前の亡くなった父はここから東のテスゴル流域あたりを得意の戦場としていた。ときどき北から下りて来ては単于の王庭に向かおうとするテュルク族の小隊を迎え撃って、ことごとく倒した。強い男だった」
 いつの間にか追いついていたバトゥが大きく頷く。口元に少し誇らしげな色を見せたバフティヤールは、しかし、どう応えたものかと迷い、黙っていた。
「いまはまだ過ごしやすい。だが、真夏の日が照る昼下がりにここを南に渡るのは避けよ」
 感傷を打ち消すように、メナヒムが若い二人に向けて言った。

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