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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[154]辺境の城、酒泉

第6章 北の鉄窯を巡る旅
第9節 アルタイを越える

[154] ■4話 辺境の城、酒泉
「祁連と天山との間には長い切れ目がある。匈奴がシーナ河西カセイに攻め入るならばそこを狙う。そこで漢は、その切れ目を埋めようとしてきた。
 そのとき、かなめの位置にあるのが酒泉シュセンだ。右手の高い峰はカルリク・タグ山という。そのはしをかすめた先のあの辺り、あそこの小山を南に越えたところが酒泉だ。いまの単于の狐鹿姑コロクコはそこを奪い返すつもりでいる。前に話しただろう?」
「ああ、聞いた」
「狐鹿姑に限らず、単于を継ぐ匈奴の王は、この先ずっと、酒泉を奪おうと企てるだろう」
「シュセンか……。どういう意味だ?」
「酒の泉。前に話した霍去病カクという漢の将軍が、我らとの戦いの勝利を祝して王から贈られた酒を泉に流して兵たちに飲ませたというので付いた名だそうだ」
「酒を流した泉か……」
 十分な休みを取って、そろそろ動き出すかというときにナオトが訊いた。
「エレグゼン、支配してどうするのだ。匈奴も、ハンも、それに烏孫ウソンも?」
「支配地からは、ぜいをとる」
「ゼイか?」
「そうだ。税は、ある国ではムギの形をしている。コメや叩き布、毛皮や織物が税という国もある。丁零テイレイやトゥバの周りにある国は、長い間、鉄の板を税にしていたそうだ。女や男の奴隷を差し出す国もある。別の土地に行けばきんだ。金は何でも他のものと交換できる」
「みながきんを欲しがるのはそのためか?」
「そうだ、おそらくな」
 ナオトは、フヨの川のほとりでカケルが見せくれた革袋に入ったきんの粒を思い出した。金を見たのは、あのときが初めてだった。
「それに、金は光るからな」
「ああ。光るな、確かに」
 何が面白いというのか、若い二人はその場で声を上げて笑った。
 エレグゼンが、これから向かう先を見下ろしながら言った。
「この下に広がる平原は、この目で確かめたわけではないが、二つの山塊に囲まれて三角の形をしているという。その三角の一帯がジュンガル盆地だ。北西から南東へと横たわるアルタイの西側の麓と天山テンリ・タグの北の麓で区切られた広い土地だ。
 ジュンガル盆地の南の山沿いにはいくつも泉が湧いている。その泉を頼りに、昔から小さな国々が栄えてきた。オアシスの国だ。ここが、いつも争いのもとになる」
「オアシスという言葉はヨーゼフにも聞いた。水場のあるところだろう?」
「ああ、そうだ。沙漠を渉る者にとっては命にかかわるほど大事だ。ハミルもその一つだ。そのハミルを、いまは我ら匈奴がどうにか支配している。しかし、いつまで続くかはわからない。
 この盆地を狙っているという烏孫ウソンは、おそらくまだここまでは来ていないと思う。だが、いまれらがこうして隠れて進んでいるのはその烏孫の目を引くまいと考えてのことだ。
 ジュンガルはいつも遊牧の民が支配してきた。しかし、そこにシーナが忍び寄ってきている」
「シーナ? シーナは遠い彼方の祁連キレン山の辺りではないのか。それがこんなところまで迫ってきているというのか?」
「そうだ、シーナは大きい。北にも西にも広がっている。我らの支配地と接し、何十年間も争ってきた」
「その二つの国を分かつのが沙漠ゴビなのだな?」
「そうだ。シーナの地を北に行けばそこはモンゴル高原だ。間に横たわっているのが沙漠ゴビ。ゴビはシーナ人にはなかなか渡れない。我ら匈奴とは体の作りが違うからだ。ゴビを渡ろうとするシーナ人はそうはいない。いるとすれば、その者は馬とともに育ったのだろう」
「砂と石と岩のゴビか……」
「ゴビを一人で渡るのは、たぶん、お前にも無理だ。何しろ、馬で十日間、水なしに進まなければ越せない荒れ地だからな。そのような強い馬はシーナでは手に入らない」
「……」
「昔は、確かにそうだった。だがいまでは、もとの匈奴やキョウ族の者がそういう良馬を持ち出し、シーナの牧地で育てている」
「……。そうなのか」
「メナヒム伯父は、あの酒泉シュセンから北のモンゴル高原に向かう川沿いの道に近づいてはならないときつく言っていた。途中、必ず漢兵と出会う。だから吾れらは、この先は、まず南に行ってハミルを見る。ここからハミルまでは五日ほどだ。そこで、お前の探し物がないかを尋ねる。
 二晩泊った後にモンゴル高原を目指し、あそこに見えているハミルを隠している高い山を回り込んでこちら側、つまり北に出る。ハミルから東は石と岩だけの荒れ地だ。それがゴビだ。しかし、水場はある。
 いま立っているこのアルタイの東に続いてる山塊をいずれは南から北へと越える。今日から数えて十四、五日後だ。そのときはいよいよ水が大事になる」

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