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『紀元前九十二年、ヒダカの海を渡る』[031]紀元前二世紀前後の東アジアの国々と物の流れ

第2章 フヨの入り江のソグド商人
第3節 ハンカ湖の会所
 
[031] ■3話 紀元前二世紀前後の東アジアの国々と物の流れ
 目線を少し上げて、紀元前二世紀前後の東アジア北部を、ハンカ湖の会所とフヨ国を取り巻く各国の版図はんと、および物の動きという点から眺めてみる。
 海に面した東側の中央――二十一世紀時点での地域名でいえば中国――は、ハンという王朝が占めている。もともと一つにまとまった国ではなかったこの広大な地域を、当時は、漢を建てたリュウ一族が支配していた。
 ナオトが海を渡る百年ほど前、漢王朝を開いた劉邦リュウホウ――漢の高祖――は北にある匈奴国の王である冒頓ボクトツ単于ゼンウとの戦いに敗れ、盟約を交わして命拾いした。以後、漢は絹、鉄、コメ、酒などの貢ぎ物を年ごとに匈奴に献じてきた。
 これら二つの大国は、普段は物のやり取りなどもしながら比較的平穏に過ごしているが、大雪で数多くのヒツジが失われ、日照りなどのためにヒツジや馬のむ草の不足が深刻になると、匈奴は小さな集団として、あるいは国としてまとまって、国境を越えて漢地と倉を襲った。
 こうしたとき、両国間の緊張は一気に高まる。
 ことに、漢に劉徹リュウテツという王――死後におくりなされて武帝ブテイと呼ばれる前漢の第七代皇帝――が出てからは、匈奴への貢ぎ物はみ、二つの国は武器を取って激しく相い争うようになった。
 ヒダカびとには想像するのも難しいことだが、起伏のある草原の彼方まで列をなすようにして、ものものしい格好をした大勢の男たちが弓矢を持って集まり、命をして戦う。戦いは容易に終わることがなく、約束を交わして互いに弓矢を置くまで、あるいは、どちらかが手ひどくやられて兵を退くまで、何か月も、ときには何年も続く。

 そうしたときには、匈奴でも漢でも、穀類をはじめとする物資が極端に不足するために、近隣の国々から大量に運び込まれる。また戦時には、同じ量の品と引き換えに相手に渡す銀やきんの量が増える。つまり、値が上がる。
 匈奴を生涯にわたって圧迫し続けた漢王劉徹リュウテツの勢いが老齢のためか衰え、崩御ほうぎょが近づいているのではと噂されるようになったこの頃は、漢による締め付けは以前に比べてずいぶんと緩やかになっていた。それが口から口へと伝わり、会所での取引の量は自然に拡大した。

 フヨ国と鮮卑センピ国は漢の北東に位置している。ヒンガン山脈――大興安嶺ダイコウアンレイ山脈――の東側が両国の境になっていた。
 ヒンガンの東麓から海沿いにかけて広がる広大な平原と山地の南半――いまの中国・東北地方およびロシア・沿海地方南部――にはこの物語でいうフヨ――夫余――の国があった。
 また、ヒンガン山脈の北、および、東と南の山麓は鮮卑センピ国が支配していた。匈奴の冒頓単于に滅ぼされた東胡の生き残りが東に逃れて鮮卑山に拠ったためにそう呼ばれるようになった人々と国である。
 一方、フヨの北西の沿海部は息慎ソクシン国が占めている。ウスリー川の両岸とハンカ湖周辺に古くから勢力を張っていた息慎はよいやじりを産することで知られ、シュウ代の昔から中国の王朝に朝貢してきた。いまは、フヨと鮮卑に追われるようにして北に退いている。
 ヒンガン山脈から西の豊かな草原地帯には匈奴ヒョンヌという遊牧国家が版図を広げている。
 匈奴の人々は、草と水を求め、ヒツジや馬を追って広大なモンゴル高原を移動する放牧生活を送っている。馬に乗る民である匈奴は自らケイインと称するが、漢人は匈奴と記し、会所ではヒョンヌと呼んでいた。

 鮮卑もフヨも、境を接する匈奴と長い間争ってきた。しかし、より海側を支配するフヨは、このところ圧力を強める漢との争いのために匈奴との間で利害が一致し、二つの国は食糧や武器などを国境を越えて盛んにやり取りするようになっていた。両者の取引を、いまのところ、鮮卑は黙って見守っている。
 黒い河サハリャンウラ――アムール川、黒龍江――は、ヒンガン山脈の北側を大きく回り込むようにして西から東へと流れている。
 この黒い水の大河は、東流する松花江スンガリウラ佳木斯ギャムシという大きな集落の先で合流し、また、ハンカ湖の東を北に流れるウスリー川が合わさって北へと向かい、ついには、樺太カラフトとユーラシア大陸の境をなす間宮まみや海峡に注ぐ。したがってこの川は、匈奴、鮮卑、フヨ、そして息慎の国々を流れていることになる。

 紀元前九十二年当時のフヨ国には、都を定めて王をいただくフヨの人々が住んでいた。都は、カケルが双胴の舟を寄せるフヨの入り江から馬で三日ほど西に行った大きな川のほとりにあった。小高い丘の上に王庭があり、それを城柵が囲んでいる。
 都の出入り口には屯所が置かれ、フヨ人と鮮卑人の衛兵が昼夜なく護っている。
 都の周りには耕作地と放牧地とが広がっていて、多くの人々の生活を支えていた。都には、毎日、この辺りでは一番大きないちが立ち、いろいろな収穫物を持ち寄る人々と求める人々との間の取引が盛んだった。
 フヨ人の半数は騎馬する民である。くらあぶみを置かずに馬とロバに乗る。またフヨでは、畑を耕すのに馬やウシを使った。荷車もあった。
 交易の対象となる物資を運ぶのに、沙漠や乾いた荒れ地を渉るときにはラクダが使われた。ただ、ラクダは求めるのに高価で、飼いならして使いこなすのには人手が掛かる。そのため、フヨでよく見られるのはロバと荷車であり、あるいは、海と河川、湿地などの水路を行く小舟だった。
 一方、フヨを訪れる匈奴は馬に引かせる荷車を多用し、重く、かさばるものを荒れ地を越えて運ぶときにはラクダに頼った。ただ、そのようなときには、運搬は銀や金を対価に商人に任せ、自らは警護に回る。
 シベリアからの寒気に襲われるフヨ国は寒い。一帯が雪と氷に閉ざされる真冬には海も川も凍る。すると、そりが使える。大きな川や湖が厚い氷に覆われる季節には爪先も手指も鼻も凍るほど冷えるとはいえ、重くて大きなものを橇で運ぶにはむしろ都合のよいときだった。

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