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神田川の秘密24 中野・成願寺のドラマは続く 檀家が語り継ぐ戦争の悲惨

二十五の2 中野・成願寺のドラマは続くよ 戦争の悲惨
 成願寺が冊子を発行していて、檀家さんの石原咲枝さんが平成6年(1994年)7月号に戦時中の体験を『火の海になった中野』と題して書いている。

「一番苦しかったのは食糧です。食べざかりの子供を抱えているのですが、赤ん坊がいるので買い出しにも行けません。・・・十歳の娘が赤ん坊を背中に、弟の手を引いて、成子坂、今の西新宿のゾウスイ食堂に行ったことがありました。たしか十銭だったでしょう。二時間も並んだのに自分の前で売り切れになってしまい泣きながら帰ってくるのです。家には食べさせるものが何もなく、あわてて、少しばかりの大根の葉とじゃがいもの汁を作ってあげました。なんてみじめなことか。それでも娘は喜んで・・・」

「昭和二十年に入って、東中野方面は空襲がますます激しくなりました。昼となく夜となく鳴る警報のサイレンに、生きた心地はありません。・・・私たちの受けた最も大きな打撃は五月二十五日の空襲によってでした。夜の十時過ぎだったでしょうか。私と十歳の娘は赤ん坊を一人ずつ背負い、燃えさかる火の中を逃げました。熱風にまかれ、足がすくんで思うように進めません。
 ・・・どうにか宝仙寺の仁王門まで来たところで、堀りっぱなしの防空壕の中に足を滑らせて落ちてしまいました。一メートルちょっとの深さが、もう立ち上がれないのです。そこにはすでに一人死んでいて、服のすそは燃えています。足がたてないよう、助けて、熱いようと叫ぶ娘の着物にはもう火がつき、背中の子は泣き叫ぶだけ。息を吸えば火の粉が入り、吐く息さえ苦しく、・・・熱さと悲しさにどうすることもできません・・・」石原さんは平成20年(2008年)2月に亡くなっている。

 同じ冊子に、夫を戦地に失くし、子供と秩父に疎開した経験、終戦後、闇物資の売買と物置小屋での生活を書いた大島タツさんも平成6年に亡くなっている。戦争体験の実際を語る人が時の経過とともに亡くなっていくが、簡単に風化させて良いものではないだろう。
 これは、つい70年前に有ったこと。平和あってこその川歩きだ。

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