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神田川の秘密33の(2) 徳川時代と現代、民衆はどっちが幸せ?

三十三の2 徳川時代と現代、民衆はどっちが幸せ?

 しかし、神田川を井の頭池から下ってきて思うのは、なぜか苦しい生活や厳しい身分制度のことではなく、自然と賢く融和しながら暮らす江戸の人々の姿だった。鉄やコンクリートは確かに優れた素材ではあるが、人々を自然から隔絶し、無機化する素材でもあることを知った。

 川旅老人が高校生の頃は、今のトルコ(アナトリア)辺りにいたヒッタイトが鉄の加工販売を一手に握っていた(紀元前1300年代頃)と教わった。今では考古学の研究が進んで、鉄は紀元前18世紀には使われていたという。そうなると鉄は3700年以上前から人間が使って来たことになる。鉄は銅より安くて硬く、丈夫。鋤や鍬や車輪にもなったが、剣や槍になり、やがて鉄砲となり、大砲となった。航空機、戦車にもなって、多くの人を傷つけ、命を奪ってきた。

「銃・病原菌・鉄」(草思社)の著者ジャレット・ダイアモンドは1万3000年にわたる人類史の中で、富と地域格差を生み出した根元に鉄があったことを立証している。鉄そのものは悪ではない。鉄は鉄の意思に関係なく、時代・時代でさまざまな使われ方をしてきたのだった。

 それはさておき、現代が江戸時代に比べて何もかも悪くなってしまったわけではない。しかし、失ったものの大きさにも目を向けなければいけないと思う。徳川時代の再評価もその一つではないか。応仁の乱(1467年~1477年)から室町幕府の衰退、戦国時代、関ヶ原の戦い(1600年)、大阪冬の陣(1614年)と続き、戦乱の時代が最終決着したのが大阪夏の陣(1615年)。実に200年間戦争(国内戦)をしていた。

 関ヶ原の戦いでは両軍合わせて12,000~4万人(数えた人がいないので諸説入り乱れている)が戦死、大坂の陣では徳川方の圧倒的勢力によって豊臣家は滅亡している。戦死者の数は不明。この戦を最後に大きな戦争は終わり、徳川の国家(幕府)運営が始まった。

 徳川幕府の時代になって以後、島原の乱、大塩平八郎の乱、各地の農民一揆、蝦夷地の紛争など地域的な戦争はあったが、270年の間、国外に出て行って戦争をしたことはないし、天下を揺るがす大きな内戦もなくなった。概ね平和な時代だった。庶民文化が花開き、資本の蓄積も始まっていた。徳川の末期、幕府・封建体制は衰退し、新しい時代がそこまで来ていた。この大きな時代の変化を武力で我が物としたのが薩長を軸たした勢力だった。

 明治維新は日本の歴史、日本の国民にとって良かったかどうか、最近になってその検証が始まっている。川旅老人の世代は徳川の時代を否定的に見る教育を受けてきた。悪しき時代を刷新したのが明治維新で、日本の近代化と改革を目指す動乱だったと教わってきた。徳川家康は「タヌキオヤジ」で秀吉は百姓上がりの苦労人だと教わっている。だから、山岡荘八が「徳川家康」を発表し(初版発行 1953年)、家康を肯定的に書いたのには驚きと新鮮さがあった。


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