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わが故郷は文化の果てではない

いただきへの、はじまり

富士市

 富士市というまちがある。おれの故郷である。人口二十四万、静岡県では静岡、浜松に次ぐ人口第三位の市であり、茶畑と製紙、しらすが主な産品で――という感じの、典型的な地方都市だ。名前の通り富士山がよく見える。東海道新幹線と富士山が一緒に映る、有名なあの景色は富士市のものである。最近では富士山を踏みつけるような写真(!)がインスタグラムなどで流行って、その写真をめぐってジャニーズジュニアなんかは炎上したりしているが、あれも富士市の風景だ。

 と、ここまでWikipediaでも眺めながら書いてみた。が、わが父親から言わせたら「文化の果て」の一言ですんでしまうらしい。そして続けて「映画館の一つも市内にはない」と泣き言をいうのだ。

 しかし、おれは敬愛する父親のこの意見にはあまり頷けない。おれはこのまちの歴史に詳しいわけでない。そして文化なるものがなにかはわからない。が、ここに文化があり、まったく「果て」ではないことを主張したい。たしかに市内には映画館の一つもないし、隣市である沼津のように、アニメの聖地になることもないが……

 富士が「文化の果て」でないと語るために、おれは富士市の田子の浦に「ふじのくに田子の浦みなと公園」という公園を例にとろう。田子の浦に隣接した海岸沿いにつくられたこの公園は、おれにとって富士市を象徴するすべてが詰まっている。

 公園に来ると、まず目を引くのは「富士山ドラゴンタワー」なる珍妙な名前に珍妙な形の展望台や、ディアナ号なる船の模型だが、それはしばらく無視して、公園の真ん中にある歌碑に注目していただくことにする。ここには、万葉集、山部赤人が詠んだ「富士山を望む歌」が掘ってある。「田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」のほう。百人一首の「田子の浦に~」とはすこし違う。この歌碑の後ろには富士山が見える。常に真白になっているわけもなく、「ふりける」さまが目で見えるわけでもないのだが、過去の旅人たちとなにか繋がったような気がしてくる。

 次にディアナ号の複製を見てみることにする。中は小さな資料館になっていて「ディアナ号事件」に関する資料がいくつか展示されている。

 まず、ディアナ号とはなんなのか。日露和親条約の使者として下田にやってきた幕末期のロシア帝国のフリゲート艦だ。悲しいことに、安政東海地震の影響で船が壊れ、修理のために戸田へ寄ろうとした際、風の影響もあり漂流、最後には沈没した。しかし、このとき沈没したのが富士のあたりで、彼らロシア人を富士の漁民が救助したという美談がある。安政東海地震の影響を受けていたにも関わらず、五百人を助けたというのだからすごいことだ。富士はどんな城や武将の名よりも尊い文化、伝統を持っている。それは、人を助ける心なんですね。なんて気分にもなれる。

 あとは、平成三十年に竣工した、あの富士山ドラゴンタワーに登ることにしよう。金色に輝いて見える、富士ヒノキを使って建築されたこの現代風な形の塔は、地元の大学生が設計している。とぐろを巻いた龍が天に昇っていくような形だ。らせんの階段を登って富士山の百分の一の頂きへたどり着くと、富士山の頂上顔負けの景色が見える。

 ――北には裾野が広い富士山が女性的に立ち、隣には宝永山がぴょっこり顔を見せている。その下には富士市街が見える。数え切れないほどにある工場煙突と、そこから流れる白い煙、国道一号線のバイハスには車がひっきりなしに往来している。さらに目線を下げると、田子の浦が広がっている。昔はヘドロが浮いていたというこの港も、今や青に染まっている。コンテナ船も止まっている。この景色に、富士市のすべてが詰まっている。ここには生きている景色があるのだ。

 振り向いて南を向けばそこには深く、黒い駿河湾が広がり、うっすらと見える伊豆半島と私たちの間には、何隻かの漁船が今も漁をしている。

 西には堤防と松林が静かに続いている。その奥を凝らして見てみると工場がうっすらうつる。なに山地だか知らないけれど、小高い山がいくつもあって、そっちのほうが色濃く見える。

 東には箱根と伊豆の山地がずらりならんで雄大だ。四方すべてに違う顔があり、そして四方すべてが美しい。

 満足して降りようとすると、目に留まる物がある。「富士三姉妹伝説」という物語だ。駿河の富士だけが「美しい」と言われる。これに嫉妬した、醜い顔をした姉の下田富士は、天城山を屏風にして「駿河富士の顔を見ないように」した。駿河富士は姉さんを心配し、顔を見ようとし、結果天城山をはるかに越える大きさになる。下田富士は見られたくない一心でどんどん小さくなってしまう。それを遠くで見る一番下の八丈富士は、悲しげな顔をしながら仲良くなるよう祈りを捧げている。――といった話。

 おれは下田のほうを見てみるが、哀れな下田富士は見えない。また富士山を見てみると、たしかに悲しげにみえる。が、宝永山と仲むつまじく寄り添っているようにも思え、こうなると余計に下田富士が哀れに思える。と、富士山の多面性を感じながら下に降りるわけだ。

 こう、公園一つとってもすべてが文化や歴史に溢れているのがわかるだろう。――伝説の昔から、万葉の時代の歌、さらには幕末の漁民、昭和の香りを残した工業都市、平成の終わりに建てられた、金色に輝く富士山ドラゴンタワー……「文化の果て」とは一体なにごとだろう?

 だいたい「富士山」というのは、もともと「不尽山」であり「不尽」というのは「絶えることのないこと」という意味である。それに重ねて「時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひ継ぎ往かむ 富士の高嶺は」と山部赤人は想いを込め、残した歌が現代に語り継がれ、いまだ愛されることを考えると、紛れもなく、我々の立つ、今このときこの場所は、脈々と受け継がれた文化の先端だとわかる。

 あたりを見渡せば富士市のブランドメッセージが転がっているじゃないか。ここは「いただきへの、はじまり 富士市」なのだ。富士市は「文化の果て」ではまったくない。その対極に位置する、はじまりの地である。


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