不安・恐怖(狂気、その他、祭りなど)
COVIDも落ちついてきたが、人間と会うのが怖いという特番をやると聞いた。
残念ながら、観れるかどうか分からないので、予約しておくが、誰かの観た感想文を後で読むしかない。
まえも書いたが、危機というのは人間を不安にしたり、恐怖を感じさせたりする。
なにも戦争だけではない。
COVIDで、どのような闇があったかを思い出せば分かる。
自粛警察や自警団から始まり、自殺やハラスメントの増加、一方ではモラルを欠いた行為が目立つなど、影響されるものだ。
ただでさえ、生活が不安定になるし、仕事だって分からない。
補償だって曖昧だった。
一方ではカタルシスを求めたくなる。
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しかし、外のピリピリした感じ怖いと言えど、それに慣れた者は強いし、順応性があると思う。
水が隙間を染みるように、何らかの慣れや、やりやすさを手に入れれば、どうやら「慣れた者」とっては、危機の中はそれほど難儀しないように見える。
ところで、一番の荒療治というか、危機に鈍感になるには「狂う」ことだろう。
家庭内暴力が虐待増えたのは、関係しているに違いない。
まともな理性を働かせれば、妙なことや、タガが外れたようなことはしないはずだ。
戦争が人間を狂わせるというが、狂っていた方が都合がいいのは、何人首を取ったか?で褒められ勲章をもらえるのだから、その時代にある価値というの分からない。
(※)ここらへんは、なだいなだの「くるいきちがい考」を読んだ方がいい。
世の中や雰囲気が、おかしかったり、妙だっりすれば、それ自体しなければいいのだが、正論ばかりが目立ち、更におかしくなるのだから、正しさも程々にしなければならない。
(※)医科歯科大の先生は基準点(ゼロ地点)の消失と、たとえられた。
また、関連しているかもしれないが、狂いとはべつに「躁」というのがある。
躁鬱の躁の部分だ。
お祭り騒ぎの「ハレ」の状態だ。
日常が「ケ(ニュートラル)」で、ケガレは不幸な状態で好ましくない。
しかし、街中を見れば日常(ケ)というよりハレの方に偏りがあるように感じるし、高度成長期などは正にそれだったのではないか。
躁のノリから降りるに降りられない状態は、ものごとを余計に疲れさせている様にも見えるし、やらなくていい仕事を増やしているようにも見える。
要は食い散らかした宴の始末のようなものだ。
疲弊ばかりで片付けが増えれば、それだけ仕事も増える。
一見すれば躁などは、明るく好ましく見えるが、実は終わってみれば、なにも残らず花火の様だったと、そんなものだろう。
情報の多さや大事そうなこと、有用そうな広告の数々…実は時間が経ち目が覚めてみれば、あまり有用でもなく、無くてもよいものだったりすれば、踊らされていたことになる。
世の中には、夢を見せることは溢れているが、結果として自分の手元に何が残るか?は考えた方が良いかもしれない。
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