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私の文章はどこからくるのか

ここ数年はちょっと努力しているけれど、普段、本当〜〜に本を読まない。

小学生〜中学生ごろまでは図書館に定期的に通っていたので、結構本を読む方だった(と思う)けれど、高校〜大学に通ってる間はもう両手ほど指いらないんじゃないかってくらいまるきり本を読まなくなってしまった。
……いや、さすがにそれは言い過ぎかもしれない。
言い過ぎだった。ラノベとか読んでたわ。デュラララとかMissingとか買ってたな。

ここで言う“本”というのは、漫画以外の、8割方文字だけで構成されているもののことだ。
漫画は小学生の頃に母に買い与えられてから、離れたことは一度たりともなかった——大人気作品は通ってないことが多いけれど。

それでもずっと文章を書くことは好きなので、形式は様々だが何らかの形で文章を書き続けている。

たまに誰かが「いま本を読んでいる」という話を耳にするたび、不思議に思うことがある。
自分の文章はいったいどこから来ているのだろう。

イラストとか漫画とかだと、絵のタッチや話の傾向とかで、〇〇系コミックスっぽい、みたいなのがあったりするけれど、文章の特徴というのは絵と比べてはるかにわかりづらいので、ルーツを探るのはだいぶ難しいとは思う。

本をほとんど読まなかった期間も、ネットニュースとか2ちゃんねるまとめ記事とか、活字に触れてこなかったわけではないので、絶対に何かしらのインプットはあったわけだけど、2ちゃんねるはもちろん、ネットニュースやWikipediaというのは、結構ピンキリで、言ってみれば素人が書いていたりもするわけだ。でもそんなの、作家デビューしてないだけで文章の上手い人なんてごまんといるんだからあんま関係なくないか?と思う自分もいる。

根本的に私がツイ廃だという話なのだけど、TLに流れてくるおもしろそうな記事とかツイートとか、そういうのから情報を得ることが多くて、気づいたら自分でググったりしていることもあって、ツイッターを始めてからはもっぱら情報源はTLだ。

ある程度文章に触れていたとはいえ、TL上の情報もその先の記事も、断片的なものが多いし、読むこと自体が目的というか、知りたいことの答えを知る知的好奇心を満たすのが目的であることがほとんどなので、それが今の私の文章の糧だったかというと、なんとなくしっくりこない。

いつもnoteを書く時は「日記」と「エッセイ」のタグをつけているけれど、そういえば小説とエッセイだと書こう!という姿勢も文法も結構違うんじゃないかと思ったりする。
いくつか前の記事で、文章を書くのが遅いと書いたのだけど、実はそれは小説に限った話で、エッセイ……というか自分の考えをつらつら書くのはそんなに遅くない。むしろ考えているままに書き連ねているので、結構早いんじゃないだろうか。自分の感覚的な話になるから実際のところどうかはわからないけれど。

こういう、自分の頭の中の考えを文字に起こすことについて遡ろうとすると、ふと思い当たることがある。
そういえば、小学校高学年くらいのころから、日記や創作のメモ、絵、見た夢の記録、テレビの感想などなど…なんでもありの「なんでもノート」をず〜っと続けていたなあ、ということだ。
パソコンやインターネット、携帯電話などのデジタル文化に触れるのがかなり遅い家庭に育ったので特にアナログのノートには長くお世話になっていたのだけど、結局そのなんでもノートは中学・高校・大学まで続けていて、確か最新のが23冊目とかそこらだったような気がする。
まあそれもツイッターを始めてからほとんど書かなくなって、今ではもう所在も怪しいほどに霞んでしまったのだが……。
それまでずっと、キーボードを叩くのではなく、B5サイズのノートにシャープペンシルを走らせて、頭の中に溢れる言葉を書き留めていたわけだ。
そのノートの中の文章は、口語的表現が多かったので、あんまり文章のルーツとか、そういうのに結びつく感じはしないけれど、エッセイみたいな文章を書くことに戸惑わないのはあのノートの存在が大きいんじゃないかなあと思ってみたりするわけだ。

文章を書くことに抵抗がない理由はわかっても、文章がどこから来ているのかの答えはさっぱり出ないのだが、何かの折にふと目にした文章で、読めはするけど書けない漢字のように、意味はわかるけど自分で発することは決してないだろうなという表現に出会った時、自分の知識の限界を感じることがある。
別にすべての人間の知識レベルが、何かの検定のように段階的に水準が設けられているわけではないので、Aは知ってるけどBは知らない、というパズルのピースみたいな状態なのだから、私の知らない表現をする人はすごい文章を書くんだろうな、とかそういうのではないことはわかっている。けれど、自分の頭の辞書に足りなかった項目を見つけるたび、自分の奢りに直面するのだ。

読書の時間を手放して、自分の考えた世界を大事にし始めた高校生の頃から比べて、たくさんの人に触れたくさんのコンテンツを見聞きしてきたが、一番実感するのは記憶力、そして柔軟性の低下だ。
それでも、大人になってからひらがなの「な」の書き方が変わったりしたので、意識的に行動すればまだ何か変えられるということは身を以て知っている。

かつてより柔軟性がなくなってきたことを肝に銘じながら、文章の生まれる場所を探し続けてみたいなあと思う日々である。

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