10/24 『世間とズレちゃうのはしょうがない』を読んだ

面白かった。
伊集院光と養老孟司による対談エッセイ。互いに全く異なる道を異なるやり方で歩んできた二人だと思うが、師弟問答のように、あるいは親子問答のように軽快に響き合っている。自分たちの生き方について語るなんて、そこそこしんどいだろうに。ある程度年齢が行ってるからだろうか。
伊集院さんの話はふだんラジオでよく聞いてることもあり割とスッと入ってくるので、半ば一体化しつつ養老さんの回答に耳を傾ける感じで読んでいた。「モノとは対象を五感のすべてで捉えられるものを言う」という考え方はなるほどと思った。生きているから命で死んでるからモノ、とかではなく、生きてても死んでても五感で認識できてればそれはモノだと。五感のどれかが欠けていればモノではない、が、それはモノではないというだけで、五感のいずれかで認識する何かであると。更には、それらは己の外側にあるものの話で、己の内側には内側でまた、魂だとか何だとか、いろいろ存在するのだとか。そうやっていろいろ線引き……仕切り……あるいは「壁」ですか?……を引いたり立てたりすることで、一見矛盾するような考えを成立させているのだなあと感心した。
もっともあまりすんなり呑み込めない話もあるにはある。世間との摩擦にやられないように生き方の軸を二つは持つようにして、たとえば都市で生きるのに疲れたら田舎に行ってみれば、ものの見方ややり方などが変わるだろうというのは、わかることはわかるが、それで何かしら変えられりゃいいのだろうけど、結局なんか元通りになってしまったり、変えてみたのに変わってないみたいなことになりがちじゃないですか、とか。思い切りが足りないとおっしゃるだろうか。
少なくとも世間と己のズレを自覚して、そいつを埋めようとするにしろしないにしろ、逆に強みとするにしろしないにしろ、ズレを認識し続けて、それについてこれは一体どういうことなんだと考え続けることは大事なのだろう。気が重いし、気の長い話だが。

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