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9/27 『姑獲鳥の夏』を読んだ

面白かった。

京極堂シリーズは20年くらい前、中学生の頃にこれと『魍魎の匣』だけ読んでいた。続きも読みたいなと思いつつはや20年。いま、ようやく重い腰を上げる。その前にかつて読んだ2作を改めて読み返しておこうと思った。
読み返してみると、序盤の部分などは結構覚えているものだった。始まって早々に男二人がえんえんとよくわからぬむつかしい話をしていることで印象に残っていたのだ。だが「だいたいこの世に面白くない本などはない。どんな本でも面白いものだ」という台詞は現在に至るまでずっと覚えており、何ならちょっとした金科玉条、座右の銘のようにさえ感じている。可能な限りどんな本でも面白く読めるようありたい、もし面白くないと感じたならそれは面白く読めない自分の責任なのだ、と。そこまで言うとちょっと原義とはずれるか。それに、続く「一度読んだ本はそれより少し面白がるのに手間がかかるという、ただそれだけのことだ」までは掲げてないし。一度読んだ本はむしろ面白がる手間が省ける。こうして面白く読み返しているように。
だがこの会話パート、20年前に読んだときは「なっがい蘊蓄パートだなぁ~」とか思っていた。本編の事件とはあまり関係ない、せいぜい今回のモチーフとなる妖怪の豆知識とか教えてくれるパートくらいのもんだと。それはそれで面白いけど、にしても長いなぁ~、とか。しかし今回こうして読み返してみたら、これ以上ないほど本編の事件と密接に絡み合ってたし、事件の謎を解き明かすための伏線として機能していてびっくりした。脳のはたらきと認識による仮想現実、「憑物」や「呪い」の機能など、全部必要な説明だった……これを理解できてなくてどうやって最後まで読んだんだ俺は。
いや、実際読めていなかったのかもしれない。久遠寺梗子が想像妊娠であったこととか、語り部たる関口君が犯してしまった罪などについては強烈な印象があったので覚えていたけど、その後の具体的な謎解き、事件の真相などに関してはほとんど記憶に残っていなかったので。おかげで二度目でも後半は新鮮な気分で読むことができた。
事件の終盤の記憶は無かったのに、その後のエピローグ、関口君が京極堂の家にしばらく居着いて、全然面白そうでない本を読んだけど面白かった――と語るところは、冒頭の部分と合わせてよく覚えていたあたり、俺の記憶もなかなかユニークだ。関口君の信頼できない語り手ぶりを批判できない。まさか時を経て再読することで作品のトリックの説得力を向上させることになろうとは。
もうひとつ驚いたこととして、とてもするすると読めてたということがある。再読とはいえ、文庫で600頁あるものを約2週間で読めた。その間他の本も並行して読んだりしていたので、これはかなり早い方になる。この可読性の高さの要因にはもしかして、文章が頁をまたがないよう判型に合わせてレイアウトを調整するというあの作風(?)があるのだろうか。他にも印象的なシーンでは適宜改行を入れたり、台詞の前後に一行空けたりなどの演出が多く見られ、ある種ラノベのようでもある。そういったものもすべては「よく読めるように」ということなら、実に頭が下がることだ。きっと20年前の俺もそのおかげで最後まで読めたのだろう。

それにしても、「僕は高いぞ」とか言っておきながらその後料金をせびる様子もく居候させ、アフターケアまでしっかり努めて。京極堂は関口君のこと、だいぶすきだな。20年前には抱かなかった所感。

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