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新宿方丈記・26「土曜の夜と日曜の朝」

丁度いい速度、というのがある。人によって様々だろうし、どれがいい悪いもない。ただ、自分に合っていて無理せず、程よい加減というのだろうか。東京という街はその気になればどんな情報だって手に入れられるし、その数も膨大だ。本や雑誌の新刊が出れば、発売日に(あるいはフライングしてもっと前に)店頭に並ぶし、ロードショーはきちんと封切られる。私はほどほど田舎のほどほどの規模の街で育ったから、家の近所の書店になくても繁華街の大きな本屋に行けば新刊は手に入ったし、少し遅れはしたけれど、よほどマニアックな単館上映ででもない限り、ほとんどの映画も見ることができた。展覧会も東京から巡回してちゃんと回ってきた。そう、ほどほどに困らなかったのだ。当時はその微妙な時差みたいなものにイライラしていたけれど、今となってみればそれで良かったのだ、という気がしてくる。無論当時は今のようにインターネットが存在していなかったから、というのも大きいだろう。今ならさほど、どこの街でも大差はないのかもしれない。しかし当時、必要な情報を一生懸命かき集めてふるいにかけ、自分の求めるものにたどり着く。あるいは重たい辞書を引いて、探している答えを見つけ出す。そこにはそれなりの時間と労力を要したけれど、楽しかった。シンプルに、今よりずっと楽しかったのだ。例えば信用できる(間違ってることもままある)情報の多くは口込みだったりした。話題の映画や展覧会が混んでるといっても、何時間も行列しないと見られないなんてことは皆無だった。ほどほどに快適だったのだ。

一時期、本当に溢れかえる情報に振り回されることに疲れ果て、テレビもインターネットもいらない、本とラジオ新聞と、たまに映画を観に行くくらいが自分の速度にあってるなあ、そういう生活がしたいなあと、真剣に考えたことがある。実際にそうだと思う。仕事は別として、それ以外では何も困らないし、快適だろう、きっと。しかしそういうわけにもいかない理由は何か。それは自分以外との兼ね合いである。生きている以上、少なからず誰かと関わっている。自分ひとりきりの人なんていない。他人と何か関わる限り、自分の好きなことや自分の都合ばかりを優先することはできない。誰かとスムーズに会話をするためだけでも、自分の求める以外の情報が必要だったりする。そしてそれは決して無駄なことではなかったりもする。だから厄介なのである。

高校生の頃、「土曜の夜と日曜の朝」を夢中になって読み、フィッシュ&チップスに酢と塩をかけて食べるくだりに意味もなく憧れて、それがどんなものかもよくわからないまま、サラダ味のポテトチップスばかり食べて、真似した気になっていた。滑稽かもしれないけれど、そうやって、答えを探していったのだ。今は土曜の夜帰宅して、日曜の朝までは、周囲のことも後先も何も考えない、自分の好きなように過ごすと決めて、少し楽になった。1週間が終わり、まだ来週のことも考えなくていい、わずかばかりの時間。大抵は朝が来るまで好きな本を読んだり、人形を進めたり、時間に追われないことを好きなようにやることにしている。疲れたら目覚ましをかけずに眠ればいいのだ。たとえ何時でも、目覚めるまでが私の日曜の朝だから。







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