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新宿方丈記・21「雨が恋しい」

急行の停まらない駅で、電車を待っている。ホームに滑り込んできた電車はスピードを緩めようともせず、髪もスカートの裾も翻し、あっという間に走り抜けていった。蒸し暑く、じっとしていても背中に汗が流れる。関東地方は梅雨入り、なのだそうだ。バッグの中に折りたたみは潜んで居るけれど、ほとんど出番はない。6月のカレンダーは半分近く過ぎているのに、ちっとも梅雨らしくない天気が続いている。

休日の朝、ベランダから見上げる空はすっきりしないが雨の気配もない。鉢植えの紫陽花に水をやる。残念な事に今年は蕾をつけなかったが、青々と見事な葉を広げている。おそらく来年は、また咲くだろう。そんな年もある。開け放ったままの5階の窓で、風がカーテンを踊らせる。ホームを通り過ぎる一瞬の風ではなく、ゆっくりといつまでも、風は踊っている。すっかり冷めてしまったコーヒー。ラジオから流れる"EVERLASTING LOVE"が気持ちよくて、ちょっとだけ一緒に口ずさんでみる。先週片付かなかった仕事に少し手を着けたけど、すぐにやめてしまった。用事を済ませるために部屋を出る。昼間のマンションの廊下は薄暗く、高い窓から入る陽の光だけで、ひんやりとして静かだ。道路の向かい側、遠くの方で犬の声と子供の声がする。道端ではあちこちで紫陽花が咲き誇っている。ひときわ大きい紫の花を掌で押すと、鞠のようにポン、と弾んで揺れた。きっと紫陽花は、雨が恋しいだろう。傘をさすことは選べないけれど、雨に打たれて美しく輝く特権があるのだから。

急行の停まらない駅で、電車を待っていた。やっと来た電車に一斉に人が流れる。ぎゅうぎゅうの車内で、額に張り付く前髪をかき分ける。ガタン、と一瞬揺れてから、電車は走り出す。人が消えたホームに漂う空気は、湿気と熱を孕んで、夏の到来がそう遠くはないことを告げていた。





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