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翻訳者は邪推する

先月、『Re:minder』という、80年代の音楽エンタメを中心としたコミュニティサイトに、こんな文章を寄せた。

『ペット・ショップ・ボーイズ、ニール・テナントの自己実現の軌跡』

内容としては、ペット・ショップ・ボーイズのシングルとしてリリースされた2曲(『Left to My Own Devices』と『Being Boring』)を取り上げ、ボーカルで歌詞を担当するニール・テナントが自己実現を果たすまでを、その歌詞から読み解くというもの(のつもり)。

それに先だって、ちょうど1年くらい前に出版されたニールの書籍『One Hundred Lyrics and a Poem 1979-2016』を入手しており、これは100曲分の歌詞それぞれにニール本人による解説がついているという、ファン垂涎の一冊だ。

私事だが、7年ほど前からフリーランスで翻訳の仕事をしている。
なので、英語で書かれた原文の裏の裏を読もうとするクセが強く(まあそれが仕事だからね)、ニールが書くような理屈っぽい、イギリスっぽい、皮肉っぽい歌詞は、読んでいて苦しくなるけど実は好物(HENTAI…)。

さて、Re:minderに掲載された上記の駄文について。

シングル2曲のうち、後者の『Being Boring』のタイトルがどのようにつけられたかについて、ニールがこんな風に語っている。
(『Tennant, Neil. One Hundred Lyrics and a Poem . Faber & Faber.』より抜粋)

The title was inspired by a Japanese review which said we were ‘being boring’. I liked the bouncy rhythm of this phrase and confronting the criticism of our famously deadpan presentation.

(拙訳で意訳)このタイトルは、日本語のレビューにヒントを得てつけたものだ。それにはペット・ショップ・ボーイズが「つまらなくなってきた(being boring)」と書かれていた。このフレーズの、弾むようなリズムが気に入ったし、「ペット・ショップ・ボーイズのパフォーマンスといえば『無表情』」といううれしい批判も突きつけられた。

これは有名な話だが、ニールの言葉で読んだことはなかったように思える。
しかし、裏の裏を読もうとする私は、頭の中がはてなマークでいっぱいになった。

「日本語のレビューには実際どう書かれていたんだろう?」

「we were ‘being boring’」とは現在進行形なのか。現在進行形のつまらなさなのか。それとも近い未来なのか。近い未来のつまらなさなのか。前後の文脈を見ることができないので判断できない。bored(ペット・ショップ・ボーイズが退屈してる)というニュアンスだったのを間違えてboring(ペット・ショップ・ボーイズ自体が退屈)にしたとか、ないよね?

「日本語のレビューとはそもそも何だったんだろう?」

可能性としては、新聞記事(と、どこかで誰かがブログに書いていた)か雑誌記事か。CDの解説ではあるまいな。

「どこのどいつが英語に訳したんだろう?」

日本のレコード会社か、音楽雑誌か。それとも親切な(おせっかいな)ファンか。英語ネイティブか、日本語ネイティブか。

とまあ、こういうことを考えすぎて、混乱してしまうのだ。

もちろんペット・ショップ・ボーイズに関することだけではなくて、他にも日本語に翻訳された記事なんかを読んでいてちょっと引っかかりを感じると、「これって原文はどうだったんだろう?」と、ソースを探しに行ってしまうこともしばしば。

そして、原文がうまく訳されていたら「そうか…」と思うし、間違っていたらニヤリとする(性格わるーい)。

ワタクシという人間は、他人の過ちを見つけたいだけの、いやらしい、腐った性根の持ち主なのだ。

「だけど、きっとそこから学ぶタイプの人間なのよ、アタシ!」と根拠のない自信に満ちあふれ、今日も私はcarelessとcaressを見間違える。



careless:不注意な
caress:愛撫



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