映画視聴記録:関心領域(ネタバレあり)

*以下は、映画鑑賞前の自分メモ*
予告見ればこの映画の大まかな主題が予測できる。どう考えても、ガザをウイグルを、私の身の回りにある貧困を、格差を、不幸を、関心に入れず生きている私自身の事を指しているじゃないか。でも、そうでもしないと私のちっぽけな暮らしを守れない。この映画を見て、過去のこととせず、己の関心領域の外にあるものを目に入れて生きてゆく覚悟はあるのか。私にはとてもない。身一つならまだしも、薄氷を踏むような子どもたちとの生活を守ることで精一杯だ。サウンド・オブ・ミュージックのその後、トラップ一家がどのような運命を生きたのか関心があれば知ることは容易だ。それを知り、心地よい生活を捨て苦難を受け入れて生きてゆく覚悟はあるのか。映画を映画とせず、そのメッセージを受け取り生きる覚悟はあるのか。今よりもう何割かそこに人生を割けるか。私にその覚悟はない。だから、この映画を見るのが恐ろしくて仕方がない。自省なくして見る意味のないタイプの映画だと思うのだが。この映画を見ようと思ってからずっと、心身の不調が止まない。こーゆー予断をもつのが良くないのかもしれない。

* * *

視聴後もこの印象は大きく覆る事は無かった。
松永さんのソロ曲『ぼくらの七日間恋愛』の私の認識は、ミサイルが落ちる夜にシェルターみたいなホテルで外界をシャットアウトして二人のことだけに関心を持とう…僕らが生を感じられるように…というものだ。この美しいふたりとヘス家の人々との差異を明確に挙げることを私は出来ない。彼らは彼らなりに美しく心地良い生活を願っているだけなのだ。それ「だけ」という原罪のような罪深さを抱いて。
映画全体を通して画角が広めというか、アップの少ない観察者の視点を最後まで崩さずにいた。主題としては「お前の問題だ、背中を向けるな(ヘートヴィヒの台詞にも同様のものがあったが)」と観客に突きつけたいにも関わらず最後まで冷静な距離感を保つ。感情移入を拒むような映像。様々な問題を考えるときに感情に訴えて判断を迫ることの危険性を熟知しているからこその表現だと思う。感情は危険だ。例を挙げるならばヒトラーの演説が人々の感情を揺り動かし鼓舞し熱狂的に支持されたように。感情は危険なのだ。レジスタンスの少女に身を危うくしても塀の中に食料を届けるような真似をさせる。その林檎は救いもするが、皮肉にも取り合いが元で収容者が殺された。何が正しく間違っているのかわからないまま、感情に突き動かされ人は闇雲に行動を起こす。

庭いじりは私も少しする。美しく保つためには剪定し、花殻を摘み、手入れが欠かせない。そのたびに私は少し傷つく。枯れかけたものを摘まないと蕾に栄養がいかないのだ。趣味で菊を育てていた祖父は、一輪を見事に咲かせるため余分な蕾を摘み取っていた。それは命の選別にも似て、民族浄化の犠牲を彷彿させる。

正直、上級者向きというか「表現」を、いかにするかという作品だったように思う。大きな事件が起きることのない眠くなるような冗長さも何処かが戦火に晒されているこの地球に住む我々の日常そのものだ。確信犯なのだと思う。
終盤ルドルフは吐き気を催し唾を吐き捨てる。パーティーを上階から眺めガス室の事を考えていたと電話で妻に話すシーンの後だ。彼は何事もなかったかのようにまた階段を降りてゆく。視聴後に何かを感じ吐き気を催し、そしてこれまで通り暮らしてゆくであろう我々のように。 
ラストシーンの現代のアウシュヴィッツ。博物館の掃除夫の関心事項は塵を払い窓の曇りを除く事。展示された遠い悲劇を見て毎回いちいち心を揺り動かしていては自らの暮らしも儘ならないだろう。だがしかし、それでよいのか、だからといってどうしろというのだ。皮肉に満ちたカタルシスのない終幕。

なので、わたしはもうすこし心を揺らして感情を刺激したり、気づきを得たりする作品が好みだなあ。あくまで好みの問題。非常に精巧に組み上げられた箱庭を眺めているようで、すごいけれど私には難しすぎるし、すきな作品ではないかな…などとおもったり。気づけなかったり変化出来ない自分の方に問題があるというのは、それはそうなんだけど。
恐ろしい世界に背を向けて二人で閉じこもってしまおうよ…今だけ、今だけは。という世界の方に抗いがたい魅力を感じてしまう。


あと、ルドルフおまえやってんだろ、げすやろうめ!とおもったけど、やってたよね?

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