本が教えてくれたこと
読書が好きである。
もともとすごく本を読むというわけではなく、学生時代、マンガはよく読んでいたけれど、流行っている小説とかを年に数冊買うぐらいだった。
短大を出て、就職したものの、仕事についていけず体調を崩して休職した期間があった。
20代前半の当時、いろいろとうまくいかず、置かれている家庭環境に悩んだり、もやもやした日々を送っていた。
一人、仲良くしてくれる友人がいて、家に招いてくれたり遊びに誘ってくれたり何かと気にかけてくれてたが、彼女はとてもきちんとしたお宅で育っていて、憧れと同時に自分の家庭環境との違いに落ち込むことも多かった。
(今思うと、彼女も彼女でもちろん色々あったと思うが・・・)
その位の時期からなんとなく少しずつ本を読むようになって、お金がないので、図書館に行き本を借りていた。
当時は、毎日がつらくて苦しくて、優しい言葉が書かれた詩集や、癒される小説などを片っ端から借りていた。
そんな時、『アンソロジー お弁当。』という本を図書館で見つけた。
様々な作家のエッセイが載っており、読書初心者だった私は色々な人の文章が読めるしいいな、と思った。
表紙の、お弁当の写真もとてもよかった。
何気なく手にとった、ほとんど知らない作家のエッセイを読み、木内昇さんの「弁当 三十六景」という文章と出会った。
そこには、木内さんの学生時代のお弁当にまつわるエピソードがつづられている。
中学、高校と母親がたまに作ってくれるカツ丼はなぜか、真ん中に硬貨を入れる穴が空いている、高崎だるま弁当の容器に詰められている。
用心して運んでもだしが染みて臭いがもれるので、何度も「せめて容器を別のものにして」と懇願するも聞き入れてもらえない。
「丼」とくれば「だるま」は木内家のルールだった。
家の事情で自ら弁当を作って持ってくる男子がいた。惣菜らしきコロッケやらメンチカツやらが、ご飯にドーンと載っているだけの弁当である。少し恥ずかしかったのか、いつも窓から顔を突き出すようにしてこれをかき込んでいた。かっこいい奴だな、と私はずっと思っていた。
たぶん、彩り美しい弁当は山とあっただろう。しかし記憶に残るのは、その家のにおいがにじみ出たような弁当ばかりだ。家庭にはそれぞれ、流儀や価値観、習慣がある。人の数だけ暮らし方はあって、その内実は経済状況や住環境、家族構成といった表面的なことのみで計れるものではないのだろう。なにせ暮らしというのは、誰もが営んでいる身近なものであるにもかかわらず、これぞ正解という形がなく、プロもいない。そもそも甲乙をつけられるものですらないのだ。どの家庭にも必ず華があり、よろこび苦しみがあり、問題があり、喪失がある。だから、体裁を飾ることや、よそと比べてどっちがどうだということにはあまり意味がない。家庭は本来、自分たちなりの形をゼロから紡げる、これ以上ない創造的現場なのだと思う。
理想の家庭、なんて幻想である。人も暮らしもいろいろあるから面白く、また愛おしいのだ。
出典:木内昇(2017)『みちくさ道中』より「弁当三十六景」 集英社文庫
この文章を見たとき、雷が落ちたような衝撃で、同時に憑き物が落ちたようにハッとして、
「あ、これでいいんだ。私はこのままでもいいのか。そっか、良かった。」と本当にホッとした事を覚えている。
本に救われる、というたぶん最初の大きい出来事だった。
木内昇さんは、時代小説を書かれていて、『漂砂のうたう』で直木賞も受賞されている作家さんだ。
『アンソロジー お弁当。』に収録されている、この「弁当三十六景」という一編は、『みちくさ道中』というエッセイ集にまとめられている。
それから5、6年経ち…
内気でメンタルよわよわな性格で、現実で生きにくいなぁ、と感じていたが
「弁当 三十六景」のような一編に出会うため、救いを求めて本を読み、小説では主人公や登場人物に自分を重ね、エッセイやルポなどに、こんな変でもいいんだーと勇気をもらった。
生活の中でわからない事は本に助けを求め、
エンタメ的にも楽しめるようになり、
更には知らない分野を勉強の為に知りたい!
と思うようになった。
いま、私の枕元には常に本の雪崩ができている。
相変わらず、落ち込んだ時は癒しを求め本屋をあてもなくフラフラしにいくし、栄養補給のように、御守りのように何度も大切に読み返している本もある。
本は私を救ってくれて、楽しみを教えてくれた。
こんな体験をするために、世界を広げるために、これからも本を読み続けるだろう。