重い腰を上げて、やっと手をつけたnoteの投稿。 実はずっとやるやる詐欺をしておりまして… さすがにもう詐欺を続けるのはやめようと思い、投稿始める宣言をします。 最初の投稿では、なぜnoteを書くのかについてまとめることにしました。 これは誰かに向けての文章というよりも自分が目的を忘れないためです。 (書き残しておかないと絶対にすぐ忘れる。) 1. 学んだこと、感じたことの表現力向上のため 自分が書いた文章を後から振り返ると「何言ってんだこいつ」と思うことや「こうい
最悪の後悔というのはきっと死ぬ時の後悔だ。 "死の間際に人は何を悔やむのか?" そんなことを考えていた時、手に取ったのが 「1000人の死を見届けた終末期医療の専門家が書いた死ぬときに後悔すること25」大津秀一 著 という本だった。 この本は、6つの章に分けて 人が死の間際にどんなことを後悔するのか ストーリーを交えて25個の後悔を紹介してくれている。 その中で特に印象に残った「後悔」について 思うところがあったので一部書き出してみた。 . . . ①悪事
タイムロッキングコンテナとは、 スマホを一定時間ボックスに入れてロックすることで時間の浪費を回避させてくれる優秀アイテム。 惰性でスマホを触ってしまう時間が無駄なのは分かっているのに、無意識のうちにSNSや他のアプリを開いて全然違うことをしている…なんてことはないでしょうか。 私は先日、 「あれ、さっき飛行機予約しようと思ったのに何で私は薬屋のひとりごとを読んでいるんだ???」 ということがあり、己の左手に自我が芽生え始めているのではないかと怖くなったので購入してみまし
「書きたくないなー。」 noteを書こうと思って、 スマホのメモ帳を開くとたまに思うことがあります。 一番初めの投稿で書いたように 「書く」理由は3つ。 1. 学んだこと、感じたことの表現力向上のため 2. 思考の癖を見つけるため 3. 気持ち悪い自分を受け入れるため 1に関しては、内容を整理しようとして 書く時間が長くなることはあっても 書きたくないと思うことはありません。 2は書いたものを後で見たときに気付くものなので、 書くときには意識しません。 3がキツ
頭に浮かんだことを書き出して あとからその文章全体を読むと、 自分が伝えたいこととは全く違う内容に なっていることがよくあります。 これが私の筆が遅い理由です。 自分の想いを文章にすることで 違うものになってしまうのが許せない。 こんなことを言いたいわけじゃない こんな文章を残すのは嫌だ というこだわりが強いあまり、 これまで表現することを避けていました。 今、noteを書くようになって そのこだわりは全然変わっていません。 後から読み返して 「言いたいことはも
私の中にいる色んな人格の中で 叱責したり励ましたりしてくれる関西人がいます。 それが彼なのか彼女なのかは分かりませんが、 「何だらだらしとんねん! さっさとやること終わらせーや!」 とか、 「それってホンマに今すぐやらんといけんの? とりあえず寝た方がええんちゃう?」 みたいに、しっかり訛りながら話しかけてきます。 このボキャブラリーは完全に関西芸人さんの影響で、実際声に出してみると全然喋れないのに頭の中ではネイティブ並みにベラベラ喋っているのがとても不思議です。
"思ったこと、気付いたことを文章にすると考えが整理される" 分かっちゃいるけど面倒くさいなあ、、 なんて思うことが多かったのですが実際にやっていくとその凄さに気付きました。 私は、頭の中で考えて繋がりが見えた!と思うことでも書き出してみると実は必要なプロセスがぶっ飛んだまま結論づけてしまっていた、ということがよくあります。 文章化することで簡単に気付くことができるので、何も書かずに頭の中で整理しようとするよりもよっぽど楽。 主語述語がごちゃごちゃになっていたり余計な装
全般的に自己管理能力が著しく低いので 4年前から自分の取扱説明書を作成。 過去、書き方のマイルールを記したものがあったので少し編集してまとめてみようと思います。 基本ルールは 自分の状態を細かく記録すること。 改善する必要がないと思っていることに関しては 書く必要はないけれど、 良くしたい、変えたいと思っていることに関しては なるべく細かく書き残しておくようにします。 主に良くない状態から抜け出すための方法を書きますが、良かった状態を再現するためにも使えます。 大体
上京してから2年3ヶ月ほど。 この間、日本のいろんな場所を訪れました。 初めての場所ばかりで 何が何やら分からなくなるほど たくさん行きました。 (経県値というアプリでは随分とレベルアップした) 目まぐるしい毎日の中で旅に出て、 たくさんの初めてを経験して、 その記憶は体に刻まれています。 でも今振り返ろうと思うと、 あれ、何だったっけ、と思うことがしばしば。 あんなに感動したことも 遠い昔のことのように感じてしまって、 とても寂しい気持ちになりました。 たしかに
私はあまり話すのが得意じゃありません。 年々頭が悪くなっている気さえしますが、思ったことをすぐ言葉にできない。 感情の出し方もいまだによく分からないことがあったりします。 だからせめて自分の気持ちを表現できないまま終わるのではなく形にしてあげようと思って、すぐ言葉にはできなかったことや思ったけど伝えられなかったこと、ただ思っただけのことなどを日記にしていました。 毎日書くとかは無理なので本当に気まぐれで、思いついたときに書くくらいなもの。 でも、気付けば10年経って
3月3日は桃の節句。 自分の誕生月で名前の由来に含まれている(?)ので なんとなく意識しがちな日です。 この時期になると毎年思い出すのが タイトルの言葉。 古今著聞集「草木」の一節が由来らしいですが、 そこにはこう書かれています。 ここから「桜梅桃李」は "桜は桜の、梅は梅の、桃は桃の、李(すもも)は李の花が咲くように、ありのままの自分で、持つ花を咲かせなさい" という意味で使われるようになったと聞きました。 スクールカーストなんていう言葉があるみたいに、学校と
数年前まではエッセイなんて所詮… などと思っていたのに今はまんまとハマっています。 (昨日の投稿に続く) そういえば数年前から全く素性も知らない有名人でもない人のエッセイを読んでたまにコメントをしていたりしたことがあったので、実は前から好きだったかもしれません。 面白いと思う理由 つい読んでしまうエッセイというのは、日常の中にあるなんでもないことや小さな気づきをテーマにしながらそこから読者に面白いと感じさせる展開になっているものだなあと思います。 以前、古舘伊知郎×山
最近、オードリー若林さんの 「ナナメの夕暮れ」を読んでいます。 自分で文章を書こうと思うようになってから、 一番言葉を近くに感じられるエッセイも読むようになりました。 「ナナメの夕暮れ」はかなり前に話題になっていた本ですが、今更になって読もうと思ったのはまえがきの言葉がきっかけです。 諦めるとは 私はまだこの感覚がわかりません。 ずっと毎日を楽しんで生きている人に憧れ、そういう人間になりたいと思うことを諦めるとはどういうことなのか。 なぜ諦めるという選択ができたのか
実は先日、レンタサイクルのカゴにリュックを置いて帰るというやらかし事件がありました。 財布など貴重品が詰まった荷物なので、東京でそれをやるなんて愚の骨頂。 しかもスマホに一件のショートメッセージが届くまでそれに気が付きませんでした。 「あれ、ほんとだ。リュックが無い。」 メッセージの送り主は私のリュックを拾った人。 親切な方が私のリュックを保護し受け渡しのために連絡をくれたようです。 連絡をもらい安心したのも束の間、相手がとんでもない奴だったらどうしようかという考えが
過去、いかにも"お洒落"という言葉が 似合いそうなものを素敵だと思っていて それが「センスが良い」「洗練されたもの」 のように捉えていたと思います。 でもそれが今は変わりました。 "お洒落風"を作るのは案外難しくない 言い方が悪いですが、それっぽいものは パターンさえ押さえれば量産できてしまう。 でも本当に価値があるものってなんだろうかと考えたときに、簡単に量産できるようなものに価値があるとはなかなか思えなくなりました。 時として、こだわり過ぎずサクッと作れる "お
「4ヶ月後にTOIECで800点取る」 突然、友人から電話で 思いがけない宣言をされました。 このチャレンジが失敗した場合は総プレイ時間1,000時間越えのSwitchのデータを初期化するとのことで、彼の本気度が伺えました。 私は最初軽い気持ちで「応援するよ」と伝えました。 どっちに転んでも面白いからです。 すると彼は「試験の日まで水曜と土曜の8時と21時、毎回連絡をしろ」という謎の役割を強要してきました。 食い気味に断りそうになりましたが、なぜか私はそれを承諾して