対立葛藤二元論について。

対立葛藤の二元論について。

これまでの人類の歴史の根底に光と闇の対立葛藤二元論があると思う。正と邪、神と悪魔、光と闇、与党と野党、正義と邪悪、赤コーナー青コーナー、資本主義と共産主義、唯心論と唯物論、勝ち組と負け組、そのように物事を正反対の二つのグループに分けてそれをぶつけて議論する。


これは宗教から自然科学、論理学から心理学、政治学から経済学ありとあらゆる分野で見られる。

現代人はそのような思考方法にそれこそ全身、頭のてっぺんからつま先までどっぷりと漬かってしまいもう逃げ出すことはできない。

何かを思考する時、何かについて議論する時、そのような対立葛藤二元論で論ずるのは極めて自然なことである。誰も何も疑問を抱かない。


この思考法はいったいどこからきたのか?僕は西洋文化の根底にそのような発想があると思っている。分かりやすいのはキリスト教だ。あるいはそのルーツであるユダヤ教だ。神が世界を作った。神は闇の中に光を投げかけた。世界は天と地の二つに分裂した。神は人間のために自然を作った。そして自分の似姿の投影として人間を作った。

もうすでにここに光と闇の二元論的世界観が出てきている。また、人間を万物の霊長としてトップに置き、その下に動植物などの自然を配置した。人間は自然を如何様にも支配して、改変して利用しても構わないとした。これがピラミッド構造の始まり。そして人間社会の中でも支配者層と奴隷を作った。つまりどこまで行っても対立葛藤二元論は無くならない。このような考えは我々の文化のあらゆるところに見られる。

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例えば僕の専門分野である絵画の世界では構図や構成を考えることがとても重要だ。それには変化と調和、そのバランスを取る必要がある。そのために絵画のテーマに応じてその興味の中心を決める。これを主題という。その絵画の中で一番主張したい部分を決める事だ。そしてその部分が全体の中で目立つように構図を計算する。その時に明暗や色彩のコントラストを意図的に作る。これこそ対立葛藤の二元論的発想だ。ほとんどの名画と言われる作品はこのコントラストを上手く使っている。このコントラストが全くないと絵画ではなくデザインとなってしまう。簡単に言えば装飾模様だ。同じパターンの図形をひたすら平面的に敷き詰めたものとなる。主題は存在しない。それは絵画作品とは言わない。

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視点を変えて物語の世界はどうか?分かりやすくハリウッドの大作映画を例にとる。以下は僕が独自に分析して考えた例である。特定の映画ではなく一般論で書く。


まず映画の冒頭でさりげなく主人公が登場する。主人公は我々同様の平凡な生活者の側面を持っている。家族が居て家庭があり中流家庭であり、平凡な仕事をしている。極貧ではなくセレブ富裕層でもない、至って平凡な庶民である。

また、同時に主人公は生活にあたって何か大きなトラブルを抱えているケースが多い。直近にどうしても解決しなくてはならない問題、あるいはハンディキャップを持っている。しかし解決するにはとてもハードルが高いように見える。主人公はその問題で悩んでいる。大抵はこのような設定だ。

この主人公、観客である我々とそれ程かけ離れていない感情移入しやすい人間となっている。我々一般庶民もほとんどの人間は何か生活上のトラブルに巻き込まれている。順風満帆の何の問題もない人生を送っている恵まれた人はまず居ない。だからこそ弱点を持っていたりトラブルに巻き込まれている主人公が出てくると我々は自然と共感してしまうのだ。

さて、別のところで突然邪悪な存在が出現する。これがいわゆる闇だ。問答無用の邪悪な存在でありサイコパスそのものだ。悪事を成すのに何の躊躇もない。自分が世界の全てを支配することが目標だ。つまり世界征服を狙っている。この邪悪な存在はどんどんその勢力を拡大させ、悪事の限りを尽くす。


ついに我々の主人公がそいつと対決しなくてはならなくなる。その闇を倒さないとそれこそ世界が滅びる、そのような状況まで追い込まれる。この闇との対決が映画のクライマックスシーンである。

大抵はその修羅場に至る前にお助けマンとしての相棒が現れる。普通はバディーとか呼ばれる3枚目のような役柄でかなり軽薄で愛嬌があり憎めないキャラクター。観客もそのバディーと主人公の掛け合いが好ましく思っている。バディーいい奴だと思ってしまう。

そして修羅場の対決シーンになって、突然、その相棒バディーが主人公を裏切り敵方につくのだ。大抵はそのようなストーリーになっている。実はバディーは闇側の工作員スパイだったのだ!

そして主人公は自分の抱える生活上のトラブルと、足を引っ張る相棒バディーと、邪悪で強大なサイコパスの敵と、それらと同時に戦わなくてはならなくなる。つまり三重苦の絶体絶命の窮地に追いやられてしまうのだ。

それで観客は一体全体主人公はどうなるのか?ハラハラドキドキしてしまう。で、ハリウッド映画においてはその絶体絶命の窮地を、主人公がとんでもないアイデアを使うことによって見事に切り抜けて勝つのである。最後にはいつも勝つのである。😆


そのアイデアは大抵は自分の抱え持っているトラブルやハンディキャップや弱点を逆転させて思いつくことが多い。このようにして我々観客はいつもハリウッド映画のワンパターンの作劇法に騙されてしまうのだ。何だかとてもいい映画を見たと錯覚してしまう。「おお、そうか。ハンディキャップを持っていても大きな生活苦を抱えていても、彼のように発想を逆転させれば一気に挽回できるのか、素晴らしい。努力したら夢は叶うのだ!」と思ってしまうのだ。騙しである。😆このようにハリウッド映画、あるいは日本でもヒットしている漫画やアニメやドラマや映画はほぼ例外なくそのようなストーリー構成となっている。典型的な対立葛藤二元論であり光と闇の戦いである。バカな!これに騙されてはいけない。😆


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J-Popの歌の歌詞などは失恋の歌や別れの歌などが多い。基本的に悲しみや苦しみや恨みや叶えられない夢を俯瞰的視点で見て歌詞にしているものが多いと思える。歌の場合闇から光を憧れて見上げているケースが多い。これも根本的には対立葛藤二元論である。

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結論を言う。

この対立葛藤二元論的な発想はいい加減やめよう。

もう時代遅れだ。

卒業しなくてはいけない。

いつまでもこのような二元論的思考法をしていたら人類は進化できない。

もうそんな時代ではない。いったい何千年これを続けてきたのか?この二元論的単純で幼稚な思考法が争いを生みそれを助長し正当化して遂には戦争にまで発展していった。いつもそうだった。


しかしそれが科学的論理的思考法の基礎であると言う人がいる。
物事を分析して本質を知るためには対立葛藤を生じさせる必要があると言うのだ。
全体を分析して部分に分けてそれぞれの働きを調べるのは必要かもしれないが、それを最終的に対立葛藤の二元論に落とし込む必要はないと僕は思う。現代人は正反対の二つの勢力に分けると安心する癖があるようだ。
思考の癖だ。
正邪善悪の対立する概念に落とし込むと安心するのだ。

要するにこれは我々の知性の限界かもしれない。人類はそれ程賢くないので善悪二元論でしか物事を考えられないのかもしれない。

それくらい物事を単純化しないと理解できないのだ。

例えば変数が10個もあったらどんな大天才でも扱いきれない。せいぜい同時に扱える変数が二つか三つだと思う。でもその限られた思考法がもう時代と合わなくなってきている。そんな単純な二元論的思考法は通用しない時代が来ている。現実あるいは自然や宇宙はそんな単純ではない、もっとはるかに複雑だ。こんな単純な思考法だとその過程でごっそりと重要なものが抜け落ちてしまう。

今までの思考法が幼稚で間違っていたと認める時代が来ている。

物事を正反対の二つに分けるのは良い。

我々はバカだから仕方ない。

しかしバカすぎるのだ。

😆

その二つの要素に強く拘りそのどちらかが絶対的に正しいと考えるのは間違っている。そのように思う。その単純で幼稚な思考法が争いや苦しみや不幸や貧困やありとあらゆる悲惨な事件を生んできたのではないか?


そしてこの思考を超越するには我々人類が次の段階へ進化するしかないと思う。

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