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曽野綾子『魂の自由人』「シンポジウムには酒が要る」

四十代から手習いを始めた。
習字ではなく聖書学である。
新約聖書だけに十七年かかってようやく全貌が見えた。
学習を始める際、
私の先生であった堀田雄康神父にさわりのところだけギリシャ語で教えて下さい、とお願いした。
ということは全文をギリシャ語では学ばない、ということである。
私は何かというと、すぐ「そんなことをしては死んでしまう」という科白を心の中で呟いていることがあった。
労力を惜しむのである。
ことに私の場合は視力に自信がなかった。
子どもの時から乱視と近視が強い。
だから「全文ギリシャ語なんかで読んでいたら、目がつぶれちまう」という感じであった。

謙虚に書いているのだろうけれども

その謙虚を感じ取れない人が読むと

誤解される文章でもある。

誤解されないように直接的な説明が十分ではないところがあるからだ。

決して曽野綾子は労力を惜しむ人ではなく

むしろ十分に労力を使わなければならないことばかりをしてきた

現代の功労者であるのだ。

・・・

聖書について学んだことが多くの著作に生かされている。

聖書学を学ぶにあたって自分の目を守る選択をしたことは重要な点だった。

それは曽野綾子が言う怠け者であるからではないのだ。

・・・

怠け者であるという話から

毎年身障者たちを聖書にまつわる土地に旅行に行った時に

若い時には車いすを押すこともしていたが

自身の足を折ってからは口と手先だけのお手伝いとなったという。

(それも本当はできないからであるので、これもまた決して怠け者だからではない。誤解されてしまう表現だ。)

そして

このようなムードメーカー的な存在は集団には欠かせない。

・・・

ギリシャ語について

・高速道路や飛行機の出口には「エクソダス」という表示。これは聖書では『出エジプト記』のこと。

・「シンポジウム」というのは本来は「饗宴」という意味だから酒の出ないシンポジウムはおかしいという。ギリシャ語で《シュン》というのには《ともに》という意味がある。

・「シュン」から出た英語はたくさんある。「シンパシイ」は同情であり、相手と同じ思いになることが正しい同情であり、自分が上に立って憐れむことは同情ではないこと。

・「シンフォニイ」(交響楽、交響曲)は多くの楽器が相手の立場、総体としての影響を考えて個々のパートを演奏する。一人目立つことは許されない。

この「シュン」という概念は一見、自分を縛りつけて不自由を強いるように見える。
しかし本当はそうではない。
存在する者には必ず存在する地点があるものだ。
流行に乗ることが、シュンなのではない。
シュンを可能にするのは、まず自分を確保し、そのゆるぎない自分の個性を以て、他者とかかわることなのである。
自分の生き方の哲学や美学を持たなければ、本当は他者とかかわることができない。
あえてアマノジャクな行為をしろ、というわけではないが、人と同じことをするのでは、その存在意義が希薄になるのである。

その旅行先のベニスの朝食の時に

夫を見失ってしまった際

ウエイターにそのことを言うと、にこっと笑って「それはいいことです」と言われたという。

ヨーロッパではこんな会話をざらに経験するという。

このウエイターは三十前後だろうが。
三十年も生きれば周囲の人生をいやと言うほど見てきたはずだ。
ねじまがり、矛盾し、裏切り、引け目とプライドが入りまじる。
ねたみも憎しみも人一倍。
その代わりに許しの輝きも認めざるを得ない。
食えなければだましも盗みもやるが、同じ手で施すことも知っている。

日本人はそうした分裂を悪く言うが、こうした極限の対照的な人生の見極め方をするところで、初めて個性も生まれるのである。
しかし、このシュンという思いは、必ずしもいいことだけするのではないかもしれない。
いいか悪いか分からないことにもかかわる時がある。

私は小さなNGOの一員として長い年月アフリカの飢饉や病気や子ども達の修学のために働く日本人の神父や修道女の活動を支えて来たが、私の周囲には、「そんなことをするから、アフリカの問題は解決しないんだ。彼らの依頼心や乞食根性をますます増長させるだけだ」とあからさまに言う人もいる。
しかし私は「そうだ、私たちはもしかすると悪いことをしているんだ」と思いつつやればいいと考えている。
その程度が無難で自然でいい。
人はいいこともやるが、悪いこともやるものだ。

いずれにせよ、矛盾するようだが、「シュン」という関係が正当に機能するときだけ、人間はむしろ自由の本質を手に入れるのである。

物事には必ず段階が必要となる。

現在のアフリカは自分達で国を作ろうとしているところも多くある。

それまでの過程の一部として、かつて日本が戦後に世界の国々から支援を受けたように、曽野綾子のNGO の支援が機能してきたのだろうと思う。

その中で、支援する団体と、支援する神父や修道女たちと、現地の人たちがともに思いが同じという時にだけ、本当の自由があり、みんながともにみんなのために働くことができたのではないかと思う。

何もしないで非難することしかできない人たちの言うことなど

聞くことはない。

そして

お金しか出せない私自身も

感銘はしても

何も言うことはできないのだ。



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