若松英輔『内村鑑三をよむ』「自己への信頼と他者の発見」ー『後世への最大遺物』『代表的日本人』

『後世への最大遺物』には、誰に頼まれたわけでもなく、ただ隣人の生活を考え、山を掘り、水路をつくった兄弟の生涯が語られている。

この兄弟は名前も知られていない。

だが、彼らがつくった水路は六百年後も村に水を運んでいる。

「人が見てもくれない、褒めてもくれないのに、生涯を費やしてこの穴を掘ったのは、それは今日にいたっても我々を励ます所業ではありませぬか」と内村は言った。

その水路を生涯をかけて作った兄弟は

他者からの賞賛を求めることを目的としてはいない。

水路の目的は生活の安定ということだ。


人は水なしでは生きることはできないのだから。


うっすらと他者からの賞賛を求めているのであったら

それが得られない時に

その水路を作ることを生涯の仕事とはできないであろう。


逆に考えると

その地域の生活を向上させた水路を作った功績が

誰にも知られないことは

あり得ない。

何だろうか。

誇張した表現なのだろうか。

『代表的日本人』で内村は同質のことを儒学者中江藤樹(1608~1648)の生涯をバラの花に喩えて語っている。

バラの花は、自らがどれほど芳しい香りを放っているのかを知らず、また気に留めることない。

ただ、ひたすらに咲く。

そして、それに触れたものを励まし、慰め、ときに彼に寄り添う。

藤樹もまた、そのように生きたというのである。

人知れず咲くバラの花。

バラの花という限りにおいて人目に付く。

これが、名も知れない雑草の花だとすると、まだ理解しやすい。

しかし

植物には人間には感知できないセンサー機能があって

お互いに交信することができる。

芳しい香りは

周囲に広がり

結実の助けとなる昆虫にも十分に伝わっている。


美徳に隠される人の労働や功績。

そんな時代がずっと続いてきたのだ。


もう気づくことが必要だ。

人は自らが何を世にもたらしているのかを知らない。

それを発見するのは他者である。

その他者は、同時代に生まれるとは限らない。

自分の評価を他者に依存することは

自律を妨げる。


何かが空回りしている感じがする。

時代が変化していることだろうか。

何かがおかしいのだ。


以前読んだ時に受けた感銘とは

何だったのだろうか。

今冷静に見ると

もう

共感できなくなってしまっている。

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