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曽野綾子『部族虐殺』「二本の道」よりマザー・テレサの言葉

1997年マザー・テレサが亡くなり、その日は英国皇太子妃ダイアナのお葬式の日でもあったという。

「二本の道」と言うのは、マザー・テレサとダイアナ妃のそれぞれの生き方の道ということだ。

マザー・テレサは一生を貧しい人のために働いた人で

インドのカルカッタで「死を待つ人の家」を開いた。

その施設の壁にあったという言葉

「すべてのことは、神のご意志の元にあるように動く。

すべての結果は、自分自身にあるように働け」

自分の働きの結果には、自分で責任を持つということでしょうか。

・・・

マザー・テレサは日本に来たことがあるけれども

日本に対して、かなり不愉快な印象を持ったという。

(日本には「無関心」という病があるといったように思う。)

また、利己的な理由で堕胎を認める国であり、堕胎は平和を破壊するものであると言ったという。

・・・

マザー・テレサは、ノーベル平和賞の受賞後のパーティーを中止し、その費用を二千人のクリスマスのディナーに使ったという。

革新的な考え方ができる人。

・・・

マザー・テレサの祈りの言葉

「主よ、わたしは信じ切っていました。

わたしの心が愛に漲っていると。

でも心に手を当ててみて。本音に気づかされました。

わたしが愛していたのは、他人ではなく、

他人の中の自分を愛していた事実に。

主よ、わたしが自分自身から解放されますように。


主よ、私は思いこんでいました。

わたしは与えるべきことは何でも与えていたと。

でも、胸に手を当ててみて、

真実がわかったのです。

わたしの方こそ与えられていたのだと。

主よ、わたしが自分自身から解放されますように。


主よ、わたしは信じ切っていました。

自分が貧しいものであることを。

でも胸に手を当ててみて、

本音に気づかされました。

実は思い上がりと妬みの心に、

わたしがふくれあがっていたことを。

主よ、私が自分自身から解放されますように」

・・・

本当の愛というものは、他人の中に自分を見つけて満足することではない。

それは

他人を愛するように見えて

結局は自分自身を満足させるものであるからである。


それでも

結果が同じであれば

いいのではないかと私は思うけれども

マザー・テレサは

愛の対象は自分ではなく

他人でなければならないという信念を持っていた。

それが本当の真実の愛であるから。

・・・

また

自分は何でも与えていたと思っていたけれども

本当の与えられていたのは

実は自分の方であったということ。


その視点の変換が出来る時に

人は本物となることができるように思う。

・・・

そして

自分が貧しく何も持っていないと思っていたけれども

思い上がりと妬みでふくれあがっていた。

それらを含めて

何も持たないことができるならば

「自分自身から解放される」

こととなるというのだ。

・・・

自分自身からの解放は

自分に執着することなく

愛を持って行動することで

可能となる。

・・・

その自分を超えた

無の境地こそが

本物の愛となる。

・・・

癖が強いような人に見えるマザー・テレサ。

そうでもないと

偉大なことは成し遂げることはできなかったと思う。

・・・

自分からの解放を神に願い、祈る。

その究極の視点こそが

煌めき輝くものだ。


自分を見つけ続けてゆくこと

その過程こそが

素晴らしく

美しい。






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