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曽野綾子『誰にも死ぬという任務がある』「馬とニンジン」

私は実際に見たことがないのだが、馬の背中からニンジンをぶらさげた竿を伸ばして、ニンジンが馬の鼻先のぶら下がるように調節しておく。

すると馬はそのニンジンを食べようとして走るのだが、馬が走ればニンジンは先へ行くので、馬は永遠にニンジンを食べられないわけである。
これは残酷というか滑稽な図なので、知性のある人間の引っかかる状況ではないだろう。

しかし私は自分の鼻面の先に、ほとんど口が届くことのないニンジンがぶらさがっているのをめがけて自分が走る姿を想像しても、あまり情けないとは思わないどころか、この構図を時には利用して、意志の弱い自分を走らせようと企む方なのである。

つまり私は自分一人で、悪だくみのある飼い主と愚かな馬と、双方を演じられる機能を持ちたいのである。
人間は死の直前まで、自分を管理すべきだと私は思っている。

別に偉いことをしなさい、というのではない。

徐々に衰え、最後には、口もきかず、食欲も失い、ただ時間が死に向かって経っていくようになることは、自然だ。

しかし、どんな場合でも、できれば人は他人の迷惑をかけず、密かに静かに、死ぬという仕事をしたらいいと思うのである。

日本人は他人に迷惑をかけてはいけないと教え込まれている。

生きていることはお互いにある程度迷惑をかけていることなのだから

許し合えばいいことだと思う。

自然のそのような状態に移行するためには、却って日々刻々目標がいる。

つまり馬の鼻先のニンジンを食べようとする、あの行動だ。

少なくとも私はそうである。
ほんとうにこうした計画がないと、私は暮らせない。

行動が支離滅裂になって、何をしているのかわからなくなる。

だからこうして計画的に家事をするのは、他人のためではない。

自分のためなのである。

自分を自分でできる限り管理することが大切なのだ。

そのための日々のスケジュールを組み

やることを決めておくことは

助けになる。


苦労してやろうとしなくても

やることとになっているからすることの方が

楽にできるからだ。

また

生活そのものを簡素化することは

日々の生活を穏やかにし

自分の死後の遺品の始末をする人は

楽になるという。

ロシア系ユダヤ人を両親にフランスに生まれた哲学者の
ウラジミール・ジャンケレヴィッチは
一定の長い時間をかけて死をもたらす二つの要素として、
倦怠(主観性)と老化(客観性)を挙げたが、

偶然私が自分の鼻先に意識的にぶらさげたニンジンに辿り着こうとする愚かな目標を作ったことは、
この二つの要素に、弱々しく抵抗するのものである。
倦怠という状態は、実に高級な魂の反応を促す場だということを私は昔から知っている。

倦怠の中でこそ、人は自分で自分の魂の生き方を選ぶ。

倦怠をどうにかしてなくそうとするならば

高級な魂の反応となる。

しかし

倦怠は徳を乱す場でもある。

倦怠は精神を壊すことにもなる。

目標があれば倦怠ということはないし、目標に従って労働すれば、いくらか鍛錬になって肉体の老化も遅らせることができる。
できたら、目立たずに老年を送る、という点に話に戻せば、これは純粋に趣味の範疇に属することであって、善悪でも道徳でもない。
しかし、私の見る所、老年になって真に力を持つ人は、沈黙し、目立たない暮らしを愛している。
できれば目立つ存在にはなりたくない、と私はそれでもおしゃれのつもりで考えたのである。

ごく普通の、空気のように、いるかいないのか分からないような人が、老年としてはしゃれている。
持って生まれた性格が私のように悪かったり、生来お喋りだったりすると、この影のような密かで美しい老年にはなかなかなれず、それは死という消滅の状態への最も自然で粋な移行がなかなか素直に行かないということに繋がるのである。

どうしても人は

ないものを欲しがるようにできているのだ。


曽野綾子さんのような偉大なことをした人は

目立たないことを望むようになる。


偉大でなくても

目立ちたくはないけれども。


目立つとか目立たないとか考えることもなく

体が弱ってきたら

人の助けが必要となることもあるのだ。

その時には

感謝しながら助けてもらうことが必要だ。


ではそうなる前に何ができるだろうか。


自分でできる限り何かをしておくことだ。

ゴミを拾うとか

落ち葉を捨てるとか

困っている人を助けるとか

機嫌よくしておくとか


それくらいは

しておいたほうがいい。





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