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曽野綾子『自分の始末』「夫婦口論」

ほんとうの愛というのは、

好きという感情の吐露とは拮抗するものなのかもしれない。



少なくとも冷静な愛がないと、ボランティア活動はできません。



私は若いころ、

ある神父に「ボランティアが楽しくなったら、やめなさい」

と言われたことがあります。


楽しいと感じるのは自分が遊んでいるだけだ、と。

ボランティアをやると、いやな目に遭うこともある。



前にも言ったように、

海外邦人宣教者活動援助後援会(JOMAS)を始めて三十七年になりますが、

外国で、

貧しい人に贈られた援助金をくすねようとする人は山ほどいるし、

貧しい人は優しくて正直だとは限りません。

腹の立つことも虚しくなることもたくさんあります。



でも、それを超えて、

これは人間としてやるべきことなんだ

という冷めた判断が必要なんですね。

冷静な判断が本当の愛には必要だという。


好きだからするとか

楽しいからするのではなく

やるべきことだと思っているから

やるのだ。


そんなミッションのように感じるようになると

それが

本当の愛ということになる。


感情を超越したところにある愛。


冷静な愛とは

喜びからは離れたところにあり


しかし

反対側にありながらも

自分の中にだけ

最上の喜びが溢れてくるのかもしれない。


そこに評価するものが誰もいなくても

自分が自分を認め

自分が自分を誇ることができる。


苦労しても

うまく行かなくても

どうなっても

決して

辞めずに

続けてきたことに対する

確かな自負。


それが本当の愛なのだろう。

根底から覆す論理。


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