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むかしエッセイが好きだった私がnoteで何を書くか

中高校生の頃、エッセイが好きだった。

10代らしいまなざしで、銀色夏生さん椎名誠さんなどに強いあこがれを抱き銀色夏生さんの「つれづれシリーズ」、椎名誠さんの「岳物語」などを愛読していた。

日常の中のくすっと笑える出来事や、非常に些細な事も作家の目線で切りとのるとぐっと新鮮なものに感じられた。

ましてや、その何でもない日常も「他人の目線で見る」とまた違った色になる。そこに純真な感動を覚えていた。

その頃からぐっと変化し、もはやビジネス書しか読まない自分に嫌気がさすほどライトなエッセイはちょっと「異端」で「軽すぎる」存在に成り下がっていた。

しかし、自分では読まなくなってしまったけど、「日常」の切り取り方への興味は継続していて、

日常のささいな出来事を、ちょっと拡大解釈してみたり、注釈をつけてみたり、視点をかえてみたり、言葉をのせてみたりは頭の中の遊びはしている。

この些細な事をこんな風に表現したら面白いかな、など。

時にはそれを、なかなか続かないけど、軽くブログやSNSに書いていた。たとえ、誰かたった一人でもコメントをくれる。何なら「面白かったよ」とか「文章好きだよ」とか言っているれると万歳するほどうれしかった。

「人に好かれる文章だ」という事がうれしいわけではない。

きっと、なんでもない日常が「誰かをくすっとさせる価値」に昇格した。それがうれしかったんだ。

「書く事」で誰かに「日常」を肯定してもらいたいたい。

「誰かに肯定されたい」なんて、甘酸っぱい気持ちが随分たくましくなった私の胸の内に潜んでいたのかもしれない。

自営業者の端くれとして、仕事の事なども書こう書こうと思いつつも、やはりエッセイ風な事へのトライが多くなる気がしている。

あくまでも「エッセイ風」。まさに「ただの日記」と「エッセイ」の境界線はあいまいだけど、自分の原稿はまだまだ「ただの日記」だ。「エッセイ」になるには「視点」なのか「文体」なのか、どこかにキラリと光る何かが必要だろう。

その階段をのぼりながら、どこかでたった一人でもクスっとしてくれたら良いのになと思い続けるんだろう。

そして、noteを何日書き続ければ、「エッセイ」と呼べるようなものに、なっていくのか楽しみでもある。

しかし、子供が延々話しかける中では1000文字程度の文章でもむずかしいなあ。







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