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『DVから逃れる』 あるDVサバイバーの記録 #008

#008  離婚調停〜裁判 DVの傷跡

シェルターから出て1ヶ月後、第1回の調停が始まった。
当時はコロナ禍で私は裁判所には出廷せず、シェルター職員と一緒に弁護士事務所へ行き、そこから電話調停というカタチで行われた。
裁判所で元夫と鉢合わせる心配がなく、その点では安心だった。

調停の段階では元夫に弁護士がついておらず、1人で出廷してきたようだ。
婚姻費用の分担から離婚、親権、財産分与、慰謝料等について調停委員を挟んで話し合いが行われるのだが、元夫は離婚は絶対に認めなかった。
そしてDV夫あるあるなのだがこちらの話より向こうの話の方が圧倒的に長い。
こちら側の話は30分もたたずに終わるのに向こうの話は1時間程度かかっていた。調停委員が内容をまとめてこちらに話してくれるが、元夫が支離滅裂な話をされてまとめきれてないことが度々あった。

調停は平行線のまま折り合いがつかず、3回で終了し裁判に持ち込まれることになった。
婚姻費用の部分だけは相場よりも高く受け取ることになったが、弁護士の計らいで上の2人の子の大学の学費として2人に直接振り込まれた。
私は生活保護を受けていたので婚姻費用を受け取るとその分保護費から引かれてしまい、メリットは無いとのことで弁護士の言う通りにした。

調停、裁判費用は法テラスを利用した。
生活保護を受けていれば費用はタダになるからと弁護士やシェルター職員に言われていた。よく調べていなかった私も無知だったが、それは相手方からお金が取れなかった場合である。
これが後にとんでもないことになるとはこの時はまだ知る由もなかった。

かくして戦いは裁判へと移った。
訴状を送り、離婚、慰謝料、養育費、親権について争うことになった。
元夫は裁判になってから弁護士をつけてきた。
裁判は主に弁護士同士で話し合うため、裁判所に出廷することはあまりなかった。
弁護士と事前に打ち合わせを行い、当日はお任せする形になっていて、後から報告をもらった。
元夫はこちら側の主張はことごとく否定し、DVはなかった、夫婦として協力してきたなどと主張してきた。そして慰謝料は払わない、離婚もしないと言い張る始末。

相変わらず平行線のまま時間だけが過ぎていった。
裁判での尋問は避けたいため、結局は和解という形になり、ここまで来るのに一年程かかった。
離婚の成立、親権は私、慰謝料、財産分与なし、養育費はほぼ算定表通りということになった。
しかし、ここでも元夫の最後の足掻きがあり、「裁判上の和解」では世間体が悪いから協議離婚ということにしてくれないかと言い出した。
なんだよそのつまらないプライドと思いながらそこも承諾した。さらに年金分割では割合を0.3〜0.4にしろと言ってきたが、それは0.5で折れなかった。

だが、面会交流に関しては向こう側が改めて調停を申し立てることで話し合いが続くことになった。
子供達に暴力を振るっておきながら(もっとも子供達は誰1人会いたくないと拒否しているのに)会いたいなんて、正月の帰省でさえも許さなかったクセになんて勝手な!

シェルターの職員は「慰謝料も取れる案件だったのにね」と言っていたが、弁護士は「金のないところからは取れないからね」と。まあ確かに貯金もなく住宅ローンで借金しか残らないわけだから当然なのだがちょっと腑に落ちない。
証拠として残した動画や当時のノートも「これでは証拠として弱い」と言って使って貰えなかったし。
一応和解という形なので証拠を出すのは差し控えるということだったらしいが、なんだかなー…。
でもとりあえず離婚は成立した。
気持ちの上ではスッキリした。

だがしかし、子供に異変が。
ある日転校先の学校から一本の電話がかかってきた。
他の子に怒鳴った先生を見て泣き出してしまったとのこと。フラッシュバックを起こしたのだ。
ところがその先生は泣いている子供を無視してそのまま授業を続け、異変に気づいた周りの子たちが声をかけてくれたらしい。
学校側はすぐにその先生を授業から外し、子供と関わりがないようにしてくれたが、今時まだそんな先生が存在していることに驚いた。子供に聞くと怒り方が元夫そっくりだったため、耐えられなかったそうだ。
その日はとにかく子供の好きなことを目一杯させた。子供はこの日以来泣き出すことはなかったが、不快な気持ちになることは度々あり、DVの傷跡は思っているよりも深いものだった。

DV避難から離婚成立まで私の場合は1年半程。
同じシェルター出身の人には何年も争う人、最高裁まで行った人もいる。
精神的な負担は大きかった。
離婚が成立したことでやっと新しい一歩が踏み出せる!と思ったが、その後も辛い日々が続いていくのであった…

次回へ続く

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