ファッション誌、あるいは無意識に"消費"される女性のこと。

わたしが通っていた高校の図書室には、ファッション誌が置いてあった。
至って一般的な、今も刊行されている、ティーンエイジャー向けの雑誌だ。
当時、毎月雑誌を買うお金もなかったから、一生懸命図書室に通っては、オシャレになろうと、その雑誌を読みふけっていたのを覚えている。

それからもファッション誌との付き合いは続いて、大学生に上がってからは、自分のファッション傾向から、いわゆる赤文字系の雑誌を中心に読むようになった。
毎度のことながら、コラムがとてつもなく恋愛至上主義だったり、常に「彼ウケ命!」みたいなノリなことには時々首を傾げていたけど、納得のいかないものはスルーしながら読んでいたと思う。

そんな、何気ないことを思い返しながら、部屋を片付けていた。
雑誌を買っていたのも、もう何年も前の話で、今は外出自粛で人に会わないで済むのをいいことに、わたしはダサくて自然なわたしを伸び伸びと謳歌している。
コーヒーいる?と、キッチンから母の声がしたので、手を止めて、「いるー」とゆるく返事をした。こんな特集あったなあ、なんて思いながら、数年前の雑誌のバックナンバーを開きっぱなしにして、差し入れのコーヒーを受け取った。
それから、少し他愛もない会話をしていたら、ふと母がベッドに置かれた雑誌に視線を落とした。それから、不思議そうに口を開いた。

「その写真、なんかグラビアみたいだね」

母が何気なく放った一言に、わたしの中の何かが、パチン、とハマった音がした。
その一言は容赦なく心のどこかを突き刺したけど、それでありながら、たまらなく、わたしの中に根を張っていた違和感の正体を、的確に言い表しているようだった。

わたしは、長らくファッション誌のコラムに、言い知れない疑問を持ってきた。
なんで、「オシャレは自分のため!」といいながら、書いてあることは結局、誰かに評価されるかが中心なのだろう?とか、
なんで、「かわいくなりたい」と書きながら、その指向は常に、男性に愛されることに向くのだろう?とか、そういうやつだ。
(※といっても、わたしが読んでいた雑誌がそういう傾向が強かったのかもしれない、とも思う)

もう一度、その写真を見た。
モデルさんは、そりゃかわいい。とても。すごくかわいい。
そのかわいい人が、けだるげな目で、下着のような姿で、こちらを見ている。

心のなかで何かがささやいた。
「これがさ、"みんながほしがる女の子"像だよ」。

そうだ。それは、男性が欲しがる女の子像だった。
とろんとした目を、かわいいお顔を、ぷるんとした唇を。
それらを、当たり前のように、男性と同じ目線で消費していた自分に気づいたのだった。
それが、「求められる像」だと、どこか自分に言い聞かせていた自分にも、気づいたのだった。

自由なオシャレを謳歌するための女の子のファッション誌に、いつからかそんな視線が混入していたのだろうか。
なによりも、いつの間にかそういうものに、なんの違和感も感じない体になっていたことに、心底驚いていた。

少しだけ時間を置いた今、思う。
思うに、一部のファッション誌というのは、「消費される女」を養成するものなのだ。そう考えれば、恋愛至上主義なコラムだって納得が行く。
だって、彼らはハナから、「消費される」ことを目的にしているのだから。
服にしろメイクにしろ、彼女らにとっては、より高く、より価値ある華として消費されるためには、どうすればいいか?という、How Toなのだ。
そして、そもそも「消費される」ことを望まないのであれば、その雑誌はファッション傾向などを抜きにして、合わないのだ。

価値がどっしりと形成された大人であれば、「自分にとって必要か否か」で判断できるからいい。自分が消費されることを望まなければ、単にその雑誌を読まなければいいだけだと思う。
けど、子供の頃はどうだろう。子供が読む雑誌にも「○○ウケバツグン!」というフレーズは沢山出てきた記憶があった。
誰かにウケるということは、消費の主体になるということだ。ナイーブかもしれないが、それを本当の意味で受け止めることができるのは、案外大人になってからだと思う。
早い段階から「消費されるものになったほうが価値が上がる」という考えに触れてしまえば、自由意志での選択ができるようになる前から「消費される女」になるように、価値観が刷り込まれたり、無意識に相手を消費する側になってしまうのじゃないか。

このモデルさんはどうだろう?と、ふと思う。
かわいい人だし、胸も大きい。普段あまりグラビアなどをやっているイメージがない人だが、ファッション誌だからなのか、大胆な露出をしていた。もしかしたら「女の子しか読まないから」と、この格好を了承した、なんてこともあるかもしれない。
そうしてふと、「女性向けのファッション誌って結構エロいから買ってるんだよね」といっていた、同期を思い出した。そうだ、男性だって、人によっては女性向けファッション誌を買う。
もちろん、それは責められたことでないけれど、そうしたら、「この雑誌」は本当は誰に向けてのメディアなのだろうか。

それは本当は、「女を消費したいだれか」のために、「消費される女をつくる」ために、「消費できる女」を載せた雑誌だったのかもしれない。
そんな事実が少し残酷に感じたけれど、長年の心の靄が少し晴れたようだった。

思考に気を取られているうちに、コーヒーは少しぬるくなっていた。
いつか、誰のことも消費しないで、みんながのびのびオシャレを楽しめる世界になったらいいなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?