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あいみょんの天才的な1曲から「自殺」について哲学的に思考する【あいみょんは天才】
あなたは「自殺」についてどのように考えていますか?
あなたはもし知人から自殺願望の相談をされた時、何という声をかけますか?
赤の他人が自殺で亡くなった時、あなたは何を思いますか?
あなたの知人が自殺で亡くなった時、あなたは一体、何を思いますか?
気付いたら、理由もわからず泣いていた
ある冬の日。私はあいみょんの1曲を聴いた。
曲名は『生きていたんだよな』。
当時の私はその曲について何も知らなかった。初めて聴く曲だった。
「…なんか、違うな」
イントロが流れ出してから数十秒程で、他の曲とは異なる「何か」を感じた。
その「何か」が、私の中にある「感情」の扉をこじあけ、否応無く土足で入り込んでくる。
気付いたら、私は涙を流していた。
涙が溢れて止まらなかった。
曲が終わるや否や、寒さでかじかんだ私の左親指は、無意識的に再生バーを限界まで左へ動かしていた。同じ曲が、何度も何度も繰り返される。
その度に、涙が溢れて止まらない。
私は結局、涙が枯れて出なくなるまで、その曲を何度も何度も繰り返し再生していた。一体何回聴いたのか分からない。しかしそんなことはどうでもよかった。
私は、なぜ自分が涙を流しているのかが分からなかった。
私はこの曲を聴いて、一体何を感じ、何を思ったのだろうか。悲しさ?辛さ?苦しさ?虚しさ?よく分からない。上手く言語化が出来ない。
ただ1つ、間違いなくこれだけは言える。
私は、「感動」していた。
「感動」というと、それが何かプラスの感情として作用したように聞こえてしまうのであるが、おそらくそのような意味ではないのだと思う。
しかしただただ、「感動」していたのだ。
そして、あの冬の寒さと正反対である7月の今日、私はこの曲を再度聴くに至った訳であるが、やはり曲が終わった頃には、あの日と変わらず、既に涙が溢れ落ちていた。果たして、私はこの曲を涙を流さずに聴くことの出来る日が来るのだろうか。
この「感動」の正体は、未だによく分からないし、上手く言語化も出来ないのだろう。
しかし、この曲は私の「自殺」に対する考え方に大きな影響を与えた。
はっきり言ってしまうと、私は「自殺をした人」の気持ちを十分に理解できるとはとても思えない。
私の人生の中で、絶望をした瞬間は何回かある。しかし「死にたい」と思ったことはないし、仮に何らかのきっかけで自殺を考えたとしても、それを決行するほどの勇気が私にあるとはあまり思えない。故に私は「自殺をした人」の気持ちを、真に自分のことのように受け止めて理解することはできないのかもしれない。
また、私のこれまでの友人の中で「自殺をした人」はいない。人生相談は何度か受けたことはあるのだが、自殺の相談を受けたことはおそらく無かったはずだ。
故に、私は真剣な自殺の相談を友人から持ちかけられた場合に、どのように声をかけるかを経験的に語ることはできないし、具体的な良い答えを持ち合わせているとも思えない。実際にそのような場面に直面した時に、一体私はどのような声をかけるのだろうか。
「これから先の人生、生きていればたくさん良いことあるよ。」
「死んだってなにも変えられないよ。」
「これからも相談受けるからさ、辛いことがあったら気軽に声をかけてよ。」
果たして正解はあるのだろうか。そもそも「生きたくない」と言っている人を相手に、ただ盲目的に「生きること」を促すことは正解なのだろうか。
ここまでの話からお察し頂けるように、私はカウンセラーのような資格も経験も持ち合わせていない。
つまるところ、私は「自殺」をテーマにした話に関しては、全くの「素人」であるわけだ。
しかし私たちは、テレビやネットのニュースでこれまで数えきれないほどの自殺の報道を耳にしている。「どこかのだれかが自殺をした」という情報は、何を言っているのかよくわからない情報に混ざり込みながら入ってくる。
私たちはその情報を耳にする度に、一種の悲しさや虚しさのような感情を抱え込みつつも、数日経てば何事もなかったかのようにいつも通りの日々を過ごしている。そして、その積み重ねとしての「今」を私たちは生きている。一体私が生きている間に、何人もの人が自ら命を絶ったのだろう。しかしその「数」を正確に知ったところで、私の人生が大きく変わるわけでもないのだろうし、おそらく今後もそうやって私たちは、どこかの誰かが自殺をしたという報道を聞き流しながら、これから先の「未来」を生きていくのだろう。
…虚無感に襲われてしまう前に、本題に入ろうと思う。
これから先は、あいみょんの『生きていたんだよな』という曲を手掛かりに、私が「自殺」について哲学的に思考してみた内容を記す。
つまり、「『自殺』とは何か」について思考したものである。
これは「自殺」という「言葉の意味」は何か、について思考したものではない。「自殺」という「行為の意味」は何か、について思考したものである。
この記事を読んだ読者が、「自殺」や「自殺」にまつわること、その捉え方について深く考えるようなきっかけとなれば、私としては非常に喜ばしく感じる。
尚、あいみょんの『生きていたんだよな』の曲や歌詞の内容についての解説は行わないので、ここから先を読み進める前に、まだ聴いていない方は先にこの曲を聴いておいて頂きたい。
「自殺」という「行為の意味」は何か
私はあいみょんの『生きていたんだよな』を聴いてから、この意味についてしばらく考えていたわけであるが、その答えを私なりに、哲学的に導きだしてみた。以下がその解である。
「自殺」とは、「絶望状態からの解放の為の最後の希望としての行為」である。
もちろん、これのみを見てもよく意味が分からないと思うので、この意味について順を追って説明していく。
まず、「絶望状態」とはどのような状態か。
それは、「未来への希望を失った状態」である。
いじめ、家庭関係や職場内人間関係等の不和、莫大な借金、不自由、等々。
「絶望状態」に陥る経緯は人によって様々だ。
自殺者はそのような経緯によって、「現状」の苦痛とその先にある「未来」への「希望」を失い、「絶望状態」に至る。
しかし、「絶望状態」に至ったとは言えども、それが「自殺」という行為の選択に直結するわけではない。
「自殺」という行為の選択に直結するもの、それは「絶望状態のまま生き続けることの絶望」を考えた時である。
別に「絶望状態」に陥ったからといって、そのまま生き続けていても特に問題は無いわけだ。もしかしたら生き続けた先に新たな希望を見出し、「絶望状態」から解放されるかもしれない。
しかし、そんな希望が見出せる保証などない。希望が見出せなかった場合、長い時を「絶望状態」という、少なくとも死ぬまで永遠に続く苦痛に苦しめられることになるのだ。そもそも「絶望状態」に陥っている時点で、「未来の希望」予測などできる余地もないのである。
つまり、「絶望状態のまま生き続けること」が真の「絶望」であるということを察知してしまうわけである。
それではどうすれば「絶望状態」から解放することができるのであろうか。
生き続けていては、この「絶望状態」から解放することができない。
そこで出てくる最後の「希望」、それが「死」、つまり「自殺」である。
「死」を選択することによって、「絶望状態」から解放されるという「希望」を見出すのである。
しかし、「死」を選択することは「絶望状態」から解放されることであるとは決して限らない。
なぜなら「死」の後に「絶望状態」から解放されたのだと「認識」をすることが不可能であるからだ。
もしかしたら天国があって、「死」の瞬間の後も「魂」「意識」は存続していれば(いわゆる幽霊)、「絶望状態」から解放されたのだという「認識」ができているのかもしれないが、果たしてそれが本当であるのかは誰にも分からない。
もし死後にも「意識」があれば、「絶望状態」から解放できたと言えるのかもしれない。それとは逆に、「解放されている」ということすらも認識できないまま「無」となったのかもしれない。
故に、「死」を選択することは「絶望状態」から解放されることではなく、「絶望状態」から解放される為の最後の「希望」であるにすぎない、ということだ。
これにて、
「自殺」とは、「絶望状態からの解放の為の最後の希望としての行為」
であるということの説明は終わることとする。
ここで、あいみょんの『生きていたんだよな』のCメロにある歌詞の一部を抜粋する。
「鳥になって雲を掴んで 風になって遥か遠くへ 希望を抱いて飛んだ」
自殺は「逃げ」なのか
よく自殺防止の為に、
「生きることを諦めないで、人生と向き合おう」
などといった、あたかも「生きる」ということが「正しい選択」であるかのような主張が目立つ。
そして、それと対比して、「自殺」という選択が「生きる」という「正しい選択」へ進むことからの「逃避」であるようなマイナスイメージの解釈をされていることも多いようにも見受けられる。
しかし、私は自殺が「逃避」であるとはとても思えない。
それは先に述べた、「自殺」とは「絶望状態からの解放の為の最後の希望としての行為」であるという説明とも繋がっている。
すなわち、「自殺」は「希望としての行為」であって、「逃避」ではなく積極的に前へと進もうとしたものではないだろうか、ということである。
もちろん、その行為によって実際に積極的に前へと進むことができたかどうかは分からない。
ただ、前へと進もうとしたということは確かであって、少なくともその行為は、マイナスイメージとしての「逃避」とはとても受け取り難いと私は感じている。
ましてや、自ら命を絶つという行為は想像を絶するほどの勇気が必要だ。
今の私にはその勇気がどれほどのものかよく分からないし、想像することもできない。
その勇気を乗り越えて、その先に希望があることを信じて前へと進もうとした彼らに、私は敬意を表したい。
「自殺」をオススメするべきか
私が自殺を推進していると思われるのもとても恐ろしい話なので、このテーマについても述べておく。
結論から先に述べると、これについては肯定できない。
なぜなら「自殺」という行為がその人にとって善いことなのかどうかは分からないからだ。
「自殺」をしたことによってその人が救われるとは限らないし、「自殺」をさせないことがその人を救うことになるとも限らない。
逆に「自殺」をすることによってその人が救われるかもしれないし、「自殺」をさせないことが後に生きる希望へと繋がり、幸せな人生を送ることのできる大きな分岐点となるのかもしれない。
つまり、何が善いのかはその段階では分からないのだ。
だから良かれと思って「自殺」をオススメすることなどとてもできないし、反対に無責任的に「生きて」とだけ言うことも心苦しい。
しかし、私たちはもしそのような場面に直面した場合、おそらくほとんどの場合はその人が生きることを願い、薦めるのだろう。
だが、ただ単に「生きて」と言ったとしても、「絶望状態」の内にあるその人にとっては何も響かないだろう。
ならばどうすればいいのだろうか。
私は「絶望状態」から解放する為の「自殺」以外の「希望」を見出すことにあると考える。
自身が絶望状態から解放する為の「希望」としての存在になる。
絶望状態から解放する為に戦う。それが未来への「希望」になる。
絶望状態から解放する為に新しい居場所を作る。それが未来への「希望」になる。
いろいろとあるのだろうとは思うが、「自殺」に代わる「希望」を見出すことによって、「自殺」という選択肢は無くなるのではないだろうか、と私は考えている。
しかし、その「希望」を見出すことが難しいのだろう。
結局響かない「希望」の提示は、中身のない「生きて」の一言と同義であるように感じられる。
それでは、どうすれば「自殺」に代わる「希望」を見出すことができるのだろうか。
その為の前提として、まずは「その人」についてよく知ることだ。
そして、その人がなぜ「絶望状態」に陥っているのか、その原因を探ることが第一であり、
またそのケースにおいて、「絶望状態」から解放されるということはどのような状態であるのか、
さらに「絶望状態」から解放される為にはなにをすることが最善であるのか、という点を考えなければならないだろう。
おわりに〜あいみょんは天才〜
私がこのように自殺についてここまで考えたきっかけは、あいみょんの『生きていたんだよな』という曲であることはお伝えした。
私はあいみょんのこの曲から、「自殺」という、人生における一要素について深く思考をするきっかけを得た。
同時に、「すごい人」とはこのような人のことを指すのだな、と改めて感じたのである。
「他者に対して人生において何かしらの肯定的な影響を与えることのできる人物」
特に面識も無い、直接的な繋がりも無くとも肯定的な影響を与えることのできるということは特に「すごい」ことである。
私もいつかそこまでの人間になれるのだろうか。なれることを祈って、これからの1日1日を費やしていきたい。
※本記事では哲学的プロセスから「自殺」について考えましたが、哲学でも科学でも何でも良いので本記事で述べたことについての補足説明や批判的意見等があれば是非ともご意見を頂きたいです。この記事を書くにあたり、頭を捻らせてああでもないこうでもないと考え続けた結果、完成に丸1日費やしました。しかし、逆に言えば1日しか費やしていません。なのでもしかしたら論理の脆弱性が見られるかもしれないので、それを補完、もしくは組み直すことのできる論理があればとても嬉しいです。
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