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The road leading to the island of God

Mochian Okamoto
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日本の国生み神話で、イザナギとイザナミの二神が最初に作った島「オノコロ」をご存じだろうか。二神はこの島で日本列島の大半を生み出したという。いわば日本発祥の地だが、ただの神話と言うなかれ。淡路島と周辺に、オノコロ島とされる場所がいくつも存在するのだ。諸説を検証しようと現地を巡った。


淡路島の南端から連絡船に揺られ10分ほど。沼島(ぬしま)に着いた。周囲約10キロ、人口500人未満の小島だ。「まず上立神岩を見てください。沼島がオノコロ島だと実感できます」。地元のボランティアガイド、魚谷佳代子さんが助言をくれた。

港から山頂へ歩いて20分ほど。見下ろすと、海から巨大な岩が突き出ている。高さ20メートル以上。鋭い切っ先が天を突く。荒波に奇岩。雄大な光景が神話の舞台にふさわしい。魚谷さんの言葉に納得できた。

古事記によると天(あめ)と地(つち)の始まりの時、イザナギとイザナミは矛で下界をかき回した。引き上げた矛先から潮が滴り落ち、オノコロ島(オノゴロ島)となった。二神は島に降り、天の御柱の周囲を回って夫婦となった。試行錯誤を経て淡路島を生み、順に四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州、他の島々を生んだ。「上立神岩が天の御柱であるとも伝わります」(魚谷さん)

二神がオノコロ島で最初に生んだ島が淡路島。二つの島の位置は近いと考えるのが自然だ。「古事記の仁徳天皇の歌からも、古代の人々がオノコロ島は淡路島付近にあると考えていたことが分かります」。兵庫県まちづくり技術センター埋蔵文化財調査部の久保弘幸さんが教えてくれた。

仁徳天皇は淡路島でこう詠んだ。「わが国見れば 淡島(あはしま) 淤能碁呂島(おのごろしま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ」。古事記の成立は奈良時代。「淡島」「檳榔の島」については不明だが、遅くとも奈良時代までに、オノコロ島は淡路島の近くと考えられていたと分かる。

その後、平安から鎌倉時代の文献に、沼島をオノコロ島とする記述が散見される。この時期に「オノコロ島=沼島説」が定着したのだろう。一方で「淡路島北端の岩屋にある絵島がオノコロ島だと地元では伝わります」と、淡路市教育委員会の高田大地さんが言う。

明石海峡大橋を渡ってすぐ。岩屋港内に巨大な岩が鎮座する。海面からの高さは約20メートル。異形の岩肌に松の緑が映える。沼島の上立神岩とはまた違った優美な趣だ。絵島をオノコロ島としたのは江戸期の国学者、本居宣長とされる。古事記研究の大家だ。これまたオノコロ島にふさわしいと思えてくる。

これに待ったをかけるのが淡路島の南部、おのころ島神社の棚田万里子宮司。「オノコロ島があった場所は当神社で間違いない」と言い切る。巨大な大鳥居は高さ約22メートル。上立神岩や絵島に匹敵する。内陸部に位置するが「昔は辺り一帯は海で、当神社のある場所が島だった」と棚田宮司。確かに、遠目に見れば、神社のある場所が丘状に盛り上がっているのが分かる。

このほか和歌山の友ケ島や、兵庫の家島諸島などをオノコロ島と見なす説もある。どの説も説得力があるがもちろん正解などない。ただ一つ明確に言えることは古来、淡路島周辺は濃厚な神話の香りが立ち込めていたということだ。古代の人々にとって淡路と周辺の地域以外に、国生みの舞台にふさわしい場所は他になかったのだ。

取材の帰路、車窓から大きな観覧車を目にした。遊園地「淡路ワールドパークONOKORO」だ。立ち寄ったが、オノコロ島に関係するアトラクションやイベントは見当たらない。清水浩嗣支配人に聞くと「淡路の人なら誰でもオノコロ島の神話を知っています。強い思い入れがある名称なのです」。オノコロ島は淡路の人々の心の中にあるのかもしれない。

(大阪・文化担当 田村広済)

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