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能動的ちんぷんかんぷん

You're all alone
You're fixing ramen
You pour hot water in
Where are your thoughts wandering
as you wait there?

『能動的三分間』東京事変(作詞:椎名林檎)

 4年間の大学生活は、カップラーメンができあがるのを待つ3分間に似ている。どちらも、何事かを為すにはあまりに短く、何事をも為さぬにしても、やはり短い。李徴だって、4年間では虎どころかミーアキャットにすらなれないだろう。

 自分の4年間を振り返ってみると、残念ながら何事かを為したとは言い難い。スマホを見ていたらいつの間にか4分経って、麺はとっくに伸びていた、というような大学生活だった。まあ、多少伸びてもラーメンは美味しい。

 短い大学生活で何かをやり遂げるのに必要なのは、いわゆる「能動性」「主体性」と呼ばれる性質を高いレベルで持っていることだろう。そしてその性質は、どうやら社会人にも必要らしい。先日試した「自己分析」ツールでも(本当はこれについても言いたいことがたくさんあるのだが一旦おいておく)、「社会人基礎力」の一項目として「主体性」が挙げられていた。主体性ポイントが10点満点中2点の僕は、当然、社会人失格ということになる。

 僕が社会人失格なのは別に構わないが、主体性が「基礎力」の一部として扱われていることには、いくらか疑問が残る。「社会人合格」の人々は、みんないつも主体的なのだろうか。みんないつも能動的に、洗い物をしながらラーメンの完成を待ち、学業とアルバイトと部活動と恋愛と就職活動に明け暮れる大学生活を過ごし、何事かを為して一生を終えるのだろうか。そんなわけがない、と思う。

 そもそも生命は、その誕生からして受動的だ。「生まれる」も「be born」も受動態だ。受動的に生まれた我々が能動的に生きるというのは、なかなか難しい。坂道を慣性で走り続ける車のように、惰性でなんとか生存している人が大半を占めているに違いない。

 おそらく、この世界で働いているほとんどの人は、常に能動的で主体的な人生を送っているわけではないのだろう。大多数は生きるために仕方なく働いて、上司に頭を下げて、何のために生きているのかと考えながら、ずるずると日々を過ごしているはずだ。学校の先生も、スーパーの店長も、「自己分析」ツールを作成したプログラマーも、大企業の採用担当も、未来の僕も、きっとそうだ。

 それでもいいだろ、と思う。死んでいるように生きていても、別にいいだろ。棺桶に詰められたような窮屈で受動的な人生でも、別にいいだろ。何事も為さず、与えられた時間を使い切るだけの一生だとしても、そのどこかには価値ある時間が存在すると信じたい。僕の過去にはそれがあったし、僕の未来にもあるはずなのだ。

 死人のような日々を送るとしても、夜空を照らす稲妻のような、あるいは救命措置の電気ショックのような、鮮烈な一瞬の訪れを僕は待ち続けるつもりだ。それは家族と出掛けた帰り道かもしれないし、何気なく読んだ小説の一節かもしれないし、3分間の音楽かもしれない。その電流の衝撃だけを頼りに、僕は僕の冷たい体を、わけもわからないまま動かし続けるのだと思う。そういう人生は受動的かもしれないが、ある意味では能動的で主体的で、そんなに悪くないような気もするのだ。

When I'm gone,
take your generator,
shock!
Raise the dead on your turntable

『能動的三分間』東京事変(作詞:椎名林檎)