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フラッシュバック・スイッチ

「ああ、簡単にいえば、忘れないためだよ。言葉で思考しておけば、思考の本質にまあまあ近い概念が、言葉として記憶される。言葉というのはデジタル信号だから、時間経過による劣化が比較的少ない。もともと、伝達するために生まれた効率的手段であって、つまりそれが記号だ」

『今はもうない』森博嗣

 いつの間にか金木犀の季節がやってきて、そして過ぎていった。この季節には、金木犀の香りにまつわる思い出を懐かしそうに語る人々をたくさん目にする。五感の中でも特に嗅覚は記憶と密接に結びついているらしいので、おそらくそのためなのだろう。

 特定の匂いが記憶と結び付くことには「プルースト効果」というおしゃれな名前までついているそうで、かなり普遍的な現象であるようだ。この現象に科学的な裏付けがあるのかどうか、僕は知らないが、感覚的には納得できる。とはいえ、僕は金木犀に対して特別な思い入れはないので、ただ素敵な香りだなと思うだけだ。それがほんの少しだけ悔しくて、今からなんとかしてエピソードをでっち上げられないかと思案している。

 金木犀に限った話ではなく、僕は幼い頃のことをあまり憶えていない。特に小学校3年生より小さい頃については、一切憶えていないと言っても過言ではない。異様な泣き虫であったとか、幼稚園の卒園式で突然エビフライが嫌いだと駄々を捏ね始めたとか、エレベーターで見知らぬ男性を指さして「あの人ハゲてる!」と叫んだとか、そういうエピソードを両親から聞いてはいるのだが、どうにも自分のこととは思えない。かろうじて、図書室に通って児童書を読み漁っていたことを、ぼんやりと記憶しているだけだ。

 一転して、中学生以降については、様々な記憶が鮮明に蘇ってくる。未熟な自分のことを考えるのは苦痛なのであまり思い出したくないし(もちろん今も未熟なのだが昔よりは多少マシなはずだ)、人の顔や名前を覚えるのは苦手だからすっかり忘れてしまっている場合が多いが、それでも多くの人に出会って色々な経験をしたことは簡単には忘れないようだ。

 中学生以降の記憶が確かなのは言語能力が発達したからではないか、と時折考える。根拠はないし、認知科学の知見に基づいているわけでもないが、何となくそんな気がするのだ。五感で感じた外部刺激や感情の動き、思考の流れなどを、比較的精確に言語化して保存することができるようになって初めて、僕の記憶は参照可能なアーカイブとして確固たる形を持つようになったのではないだろうか。実際、僕が何かを思い出すとき、その記憶はいつだって言葉によって媒介されており、感覚や感情が直接呼び出されることはない。もちろん推敲された文章の形で記憶が存在しているわけではないが、断片的な言葉の結び付きがいわばタグのような役割を果たして、感覚や感情を引き出しているように思える。

 いや、ひょっとしたら、言葉が果たす役割はタグどころではないのかもしれない。例えば僕が今、教室の景色を思い出すとき、参照されているのは本当に過去に得た視覚情報だろうか。それとも「茶色い床、ガタガタに並んだ机と椅子、チョークの粉が残る黒板、ロッカーに入っている教科書……」といった言語情報だろうか。僕にはどうも、後者であるような気がするのだ。言語によって保存していた情報を材料としてたった今生成された画像が、「教室の景色の記憶」の正体ではないだろうか。そうだとすると、言語は記憶に付いたタグではなく、記憶そのものだ。

 同様の現象が、聴覚や嗅覚といった他の感覚や感情についても生じているのだとしたら、少なくとも意識的に検索可能な記憶は全て、もはやデジタルな記号としてしか存在しない。「プルースト効果」は、嗅覚の刺激をそのまま検索に用いることで脳のメモリをハックし、眠っていたアナログな記憶を取り出すことができる裏技なのかもしれない。

 言葉によって思い出せるものなんて一つもない、と考えると、少し寂しいが、妙に納得できる気がする。きっと言語化は不可逆圧縮。過去は過去にしか存在せず、記憶は過去によく似た現在なのだ。図書室の床の手触りも、体育館に響く叫び声も、駅のホームの薄暗さも、ポップコーンの甘い匂いも、喉を湿らせた温いコーヒーの苦みも、全て編纂され、検算され、離散して、今はもうない。