テイク・オーバー・シーズン
秋と呼ぶには寒すぎて、冬と呼ぶには穏やかすぎる、この季節が好きだ。赤く色づいた葉が風に舞っているのを目にしたり、ひんやりした空気と暖かい日差しが混ざり合った温度を肌で感じたりすると、秋から冬へとバトンが手渡されるその瞬間を目撃しているような気がして、ぴりっと心地よい緊張感が走る。
そんな季節を楽しみながら日々を送っている僕のもとに、ずいぶん前に亡くなった祖父を供養する法事が行われるとの報せが届いた。世間では4連休になることも多い週末、大学では学園祭が行われている中で京都を離れることになるのは心苦しいが、理由もなく欠席するわけにはいかない。数年前に買ったペラペラのスーツを入れたスーツケースを抱え、行楽客でいっぱいの電車に揺られながら帰省することにした。悪意なき人々の集合が地獄を形成するという点で、満員電車というのはこの世界の縮図かもしれない。
法事はつつがなく執り行われた。僕が特別にしなければならないことは何一つとしてなくて、ただ長いお経を聞き、見よう見まねで焼香を行い、痺れた足をもぞもぞと動かしながらお坊さんのありがたい話を拝聴したぐらいである。「痺れが切れる」と「痺れを切らす」の間にいかなる違いがあるのかを考えているうちに全てのプログラムが終了していたようで、気付けばお坊さんはいなくなっていた。後は親戚一同でご飯を食べて解散だ。
盆や正月の帰省を長らく怠っていたので、親戚と話すのは久しぶりで、驚くことが多かった。大人連中も転職やら部下の教育やらで大変そうだったが、それよりも同年代の従兄の変わりようが印象的だった。数年間合わないうちに、高かった身長はさらに伸び、ぼんやりしていた受け答えも見違えるように落ち着いていた(これを書いている僕は何様だよと思われるかもしれないが、しかしそう感じたのだから仕方がない)。聞けば、就活を終えて来年から社会人として働くのだという。僕が6畳半の下宿でうごうごしているうちに、彼は一足先に大人になってしまっていたようだ。彼の4年間と僕の4年間が同じ長さであるとは到底思えなくて、何らかの物理的な力が働いているのではないか、アインシュタインはそういう研究をしていなかっただろうかと、京都に帰ってきてもそんなことばかり考えている。
高校生の半数が大学に入る現代日本において、そこでの数年間は、子どもが大人へと移行する時期としての役割を果たしているように思える。人の精神性はそう簡単に変化しないとはいえ、自分で選び取るものが増えて環境が変化していくのに伴って、誰もが少しずつ変わっていく。その変化は、芋虫が蛹を経て蝶になるような劇的なものではないはずだ。それはもっと緩やかで連続的で、例えるならそっとバトンを受け渡すような過程だ。つまり大学とは、子どもと大人が並走する、テイク・オーバー・ゾーンだ。
さて、バトンはテイク・オーバー・ゾーン内で受け渡されなければならない。僕のバトンタッチは、もう済んでいるか? 従兄と同じように、大人の精神が主導権を握り始めているか? 受け渡しを終えないままゾーン外に出ようとしていないか? 自問して、僕は答えに窮する。
この世界に失格はない。だけど速度の違いは、否応なしに表れる。もちろんトップランナーが転ぶこともあるだろうし、逆に一度転んだ人が後方から怒涛の追い上げを見せることもあるに違いないけれど、やっぱり順調に走りたいという欲は僕の中に確かに存在する。だというのに僕はバトンパスに気を取られ、とてもじゃないが落ち着いて走ることはできていない。早く大人になりたかったはずなのに、これはいったいどうしたことか。
テイク・オーバー・ゾーンの終端が迫っているのを感じながら、僕は今日も6畳半の下宿でぼんやりと本を読んでいる。11月も終わりに近づき、夜の京都はよく冷える。バトンパスの緊張感が市内全域を包んでいる。もう間もなく、冬が始まる。