見出し画像

インフルエンス・ウイルス

 支離滅裂で奇抜な動画や画像を指してしばしば用いられる「インフルのときに見る夢」というたとえは、今となってはあまりにも陳腐だけれども、最初に発言した人のセンスは凄まじいと思う。ネットミームとして陳腐化するものはすべて、生まれたときには人々を強烈に引き付ける斬新なアイディアだ。

 どうしてこんなことを考えていたのかというと、まさに僕の体の中でインフルエンザウイルスが大増殖していたからだった。そのせいで僕は鼻に変な棒を突っ込まれたりうどんしか食べられなくなったりと、散々な目にあった。もちろん支離滅裂で奇抜な夢も見た。

 すぐに病院で薬を貰って油断していた僕を襲ったのは、39.5度の高熱だった。それが途轍もなく苦しくて、僕は「人間の体があるのが悪いんだよな、人間は細胞で出来た人体というハードウェアを脱ぎ捨てるべきだ」などと身も蓋もないことを考えていた。他の生物に依存して遺伝子を複製するウイルスの襲撃を受けているときに考えることとしては、これ以上に皮肉に満ちた内容はないだろう。

 これはドーキンス博士の受け売りだが、遺伝子と情報(ミーム)は似ている。細胞を媒体とするか、脳味噌のヒダや記録装置を媒体とするかという違いはあるものの、どちらも自己複製を繰り返して進化する。

 大学1年の夏にこの記述を読んだとき、僕は目から鱗が落ちたような気がして、そして大きく安堵した。僕は人類史すべてが紡いできたミームを受け継いでいて、僕によって複製されたミームもまた、人類史が続く限りは何らかの形で残り続ける。もちろん生命も文化もすべてただの現象で、生きる意味なんてどこにもないけれども、それでも僕は今この世界に存在する文化が好きだ。それを受け継いでいく手段が他にないのなら、細胞に囚われて生きるのもまあ、やぶさかではない。

 ただ、そう思ってはいても、人が死ぬという事実を受け入れるのはやはり容易ではない。ちょうどインフルエンザから回復しかけていた折、鳥山明さんの訃報を目にしたときにも、その内容をすぐには信じることができなかった。

 はっきり言って僕は、鳥山明さんの作品を詳しくは知らない。たとえば『ドラゴンボール』は僕にとっては「一昔前の少年マンガ」であって、数値化された戦闘力も、インフレしていくバトルの様子も、今となってはありふれたものだと感じている。

 ただ、『ドラゴンボール』がその後のマンガ文化にどれだけ大きな影響を与えたのかは、十分に知っているつもりだ。そもそも冒頭で述べたように、陳腐化するものはいつだって革新的で魅力的なアイディアだ。『ドラゴンボール』が確立したバトルマンガの手法は、徹底的に分解され、複製され、ほぼすべての少年マンガに遍在する形で受け継がれている。それは偉大な才能によって生み出された(あるいは進化させられた)、極めて強力なミームであったと言えるだろう。

 どれだけ偉大な才能の持ち主も、歴史を変えるクリエイターも、いずれはこの世を去ってしまう。これは決して覆しようがない、世界の最悪な真実だ。けれども、彼らが生み出したミームは文化の一部となって残り、人々に影響を与え続ける。それはインクの染みやコンピューターの二進数を経由して、ウイルスのように人々に感染していくのだろう。それは、ただの現象なのだとしても、ちょっと素敵なパンデミックに違いない。