Orbital RUNdezvous
僕が通っていた高校には「周回走」という文化があった。それは体育の授業のたびに、グラウンドの縁を6周、距離にして2400メートルを走るというもので、そこそこの歴史を持つそこそこの公立進学校が自慢できる程度の、そこそこハードな伝統だった。
僕は周回走が大嫌いだった。僕に限らず、あの高校に通っていた生徒のほとんどはそうだったと思う。文句を言いながらもタイムを競い合ってわいわい楽しそうにしている男子もいたけれど、それは全体から見れば少数派で、大多数は心の底から嫌がっているように見えた。そんな中でも、運動音痴の僕はいつも後ろから数えた方が早い順位だったから、周回走を嫌悪する気持ちの強さでは上位に入っていた自信がある。
それなのに、卒業して数年経った今になって周回走のことを考えると、なんだか素敵な思い出のような気がするから不思議なものだ。喉元過ぎれば熱さを忘れると言うが、長距離走の呼吸の苦しさも過ぎてしまえば忘れるものらしい。いや、正確に言うと周回走のことは今だって大嫌いだし、いつかは無くなるべき悪しき伝統だと思っているのだけれど、それと同時に、楽しかった3年間と切っても切り離せない大切な記憶として心の中で重要な位置を占めている。回るたびに繰り返し流れるグラウンドの景色も、一定の速度で変化していくクラスメイトとの位置関係も、ただみんなで同じコースを走るという行為の本質的な無意味さも、すべてそのまま高校生活の象徴のように思えてならない。
高校で過ごした3年間の記憶が美しく感じるのは、それが友達と集団生活を送った最後の時期だからだ。僕たちはみんな、いずれは一人で生きていくことになる。マラソン大会で「一緒に走ろうね」と約束した同級生がいつのまにか遠くに行ってしまうように、ツイッターの繋がりはやがて機能しなくなり、連絡を取ることすらできなくなる。高校生の僕たちは、みんなそのことに心のどこかで気付きながら、知らないふりをして並んで走っていた気がする。同じ場所の同じ軌道を、同じ速度で、距離を離さないように過ごした日々は、3年間の円運動のようだった。
ランデブー飛行を終えた僕たちは、広くて暗い世界で散り散りになって彷徨って、お互いのことが見えない距離で、進んだり戻ったり回ったりする。あのとき一緒に回っていた人たちが今も幸せならいいな、と思う。生きている限り、呼吸の苦しさから解放されることはないのだろうけれど、それでも過ぎ去った後にはすべてがいい思い出になるのだと信じたい。願わくば、僕とみんなの現在と未来が、素敵な過去になりますように。