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飛び移る梅雨

 そのとき僕は鴨川を横断する飛び石の上にいて、こういう状況を表すことわざがあったような気がするな、などと考えていた。

 後ろからは外国人観光客の集団が迫っている。もう引き返せない。いや、引き返そうと思えば引き返せるが、邪魔だと言わんばかりに観光客を追い抜いて川の真ん中まで来たくせに、いまさら都合が悪くなったからと踵を返すのは、僕のプライドが許さない。覚悟を決めて、僕は次の石に向かってジャンプした。背水の陣の逆バージョンだな、と、どうでもいいことが頭をよぎる。着地した右足に衝撃が伝わるのと同時に、小さな水飛沫が上がる。ぴったり当てはまることわざは、まだ思い出せない。

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 飛び石を渡った経験は何度もあるが、その一つが完全に水没していたのは今回が初めてだった。前の日に降った大雨で水位が上昇していたせいだろうか。川岸からは見えづらい位置の石が一つだけ沈んでいるのは、神様の悪質なトラップとしか思えない。

 進むためには足をびしょ濡れにする必要がある。引き返せば足は無事だが、せかせかと追い抜いたはずの観光客と鉢合わせて恥ずかしい思いをする。どちらか一方を選ばざるを得ない状況で、僕は右足を犠牲にすることを選択した。言うまでもなく、愚かな決断だったと思う。観光客に見られるからなんだというのか。一瞬の些細な自意識を重んじるよりも、濡れたスニーカーの不快感を味わわずに済むことや、帰った後の洗濯の手間を避けられることの方が、よっぽど人生にとって重要だろう。

 そうやって一通り反省して歩き始めた僕は、ようやく、「飛んで火に入る夏の虫」ということわざを思い出した。あのときの僕はこれが言いたかったのだ。残念ながら、後悔も、ことわざも、必要なアイデアはいつも後からやってくる。こういう状況は「後の祭り」と言うのだと、冷静になった僕にはすぐにわかる。まだ梅雨の虫だけどな、とも思う。

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 思い返せば、いつも「飛んで火に入」っている気がする。飲み会の終盤に大量の日本酒を頼んだときも、ほとんど勉強せずに大学院の試験を受けたときも、インターンシップには一切行かないと決めたときも、明らかに目の前には大きな火の手が上がっていて、僕はそれを知りながら突っ込んでいった。そしてもちろん大火傷した。なんとか致命傷にならずに済んでいるのは、ただ単に運が良かっただけだ。もっとスマートに生きられなかったのかと、反省することしきりである。

 しかし一方で、若い人間というのは往々にして火に飛び込むものなのかもしれないな、とも考える。「その火を飛び越して来い!」が有名な(読んだことない)あの小説も、たしか若者の話だったはずだ。夏の虫ならぬ、青春の人というわけだ。

 とはいえ、来年からは社会人として働くことになる僕は、もう「青春」などと言っている場合ではない。朱夏期になってもまだ火に飛び込んでいては、家族も心配するだろうし、なにより僕自身が恥ずかしい思いをするだろう。これからは自立した成人として、自分の将来に責任を持った選択を積み重ねていかなければならない。夏へと向かう今の時期がそのための準備段階になればいいな、と思う。それは明日の天気次第だな、とも。