読書記録_むらさきのスカートの女

『むらさきのスカートの女』今村夏子著 朝日文庫

 なんとなく、秋になると読みたくなる。紫色のスカートも、黄色(ほぼ辛子色だけど)のカーディガンも、手持ちのものは秋用だからかもしれない。以下、ネタバレ(?)含む感想。

 
 地の文が「わたし」の目線でかかれているから、一人称小説と言えるはずだけれど、ためらってしまうくらい、「むらさきのスカートの女」が主語であることが多い。著者の『星の子』でも、巻末の解説にある通り、この目線の意識が徹底していたが、今作も徹底している。観察した事実と、考えや予想で、きれいに文末表現が分かれている。この目線の管理によって、読みやすさとわからなさが両立しているのが、今村夏子さんの作品の面白さのひとつだと思う。

わたしがすごくしんどかった時、ふらつきながらおつりを受け取ったら、「大丈夫?」といきなり声をかけてきた人。次の日行ったら今度は「まいど」と言った人。おかげでその次の日からは行けなくなった。

むらさきのスカートの女 P.17

 冒頭にあるこの部分だけで、「わたし」についても知りたくなった。自分を心配してくれる人に対して、いきなり声をかけてくるという言い分。お店の人にまいど、と言われたら行けなくなる繊細さ。この数行だけで、めんどくさくて面白そうな人だと伝わってくる。
 語り手の「わたし(=権藤さん)」については、ろくに情報が明かされない。「むらさきのスカートの女」について詳細に語られることを通して、「わたし」が見えてくる。『海辺のカフカ』で、カフカの『流刑地にて』を評する場面があるけれど、あれを思い出す。装置の細部について詳細に語ることで、状況を説明する。むらさきのスカートの女について語ることで、「わたし」について説明する。

 ラストでは、黄色いカーディガンの女が、子どもにタッチされる。むらさきのスカートの女は消えてしまったけれど、黄色いカーディガンの女が新たにあらわれた、ということだ。では、黄色いカーディガンの女を観察する「わたし」は誰か?他ならぬ、読者の私たちである。こうして、読者も、物語の連環に引き摺り込まれるわけだ。構造が美しい。


 

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