読書記録_女のいない男たち

『女のいない男たち』
村上春樹著
文春文庫

 映画「ドライブ・マイ・カー」を観ていて、村上春樹っぽいなと(前半の性描写の多さと岡田将生演じる高槻が、音さんについて語る時の語り口のあたりが特に)感じたと思ったら、やはり村上春樹の『女のいない男たち』が原作らしい。ということで、読んでみた。

 主に、映画の元になっていると思われるのが、同名の短編『ドライブ・マイ・カー』と『シェエラザード』。妻の浮気現場を目撃するのと、旅をして妻を失った苦しみと向き合うあたりは、『木野』も影響してそうだ。
 読んでいて、すぐに気がついたのは、原作では映画よりも性描写が少なかったこと。性描写が多いから村上春樹、なんて決めつけてごめんなさいと心の中で謝った。
 逆に、高槻の印象的な台詞は、原作そのままで、やっぱりここがいいよね、と思った。高槻は、映画でも原作でも、軽んじられているというか、薄っぺらい人として描かれている。そんな彼が、音さんを理解すること(あるいは理解できないこと)について、自らのことばでしっかり語る。そのギャップの大きさが、音さんへの気持ちの深さを感じさせて、印象的だ。

そんな素敵な人と二十年も一緒に暮らせたことを、家福さんは何はともあれ感謝しなくちゃいけない。僕は心からそう考えます。でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います

女のいない男たち ドライブ・マイ・カー 村上春樹

 小説の『ドライブ・マイ・カー』は、映画よりも物語がシンプルで、解釈しやすいというか、考える幅があるというか、余白を感じさせる作品だった。軸は同じだけど全くの別物。映画の理解の補足にはならないと思う。個人的には、要素が多い映画版より小説版が好み。

 収録された6篇のうち、『独立器官』と『木野』が好みだった。表題の『女のいない男たち』の「出会うタイミング論」もおもしろかったけれど、似た話の『4月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて』の方がまとまりが良いので。
 『独立器官』は、中年男性の初恋の話。人生をうまくこなしてきた中年の医師の初恋相手は、嘘つきの女性だった。失恋した中年男性は、失意のうちに餓死してしまう。最後まで読むと、冒頭の文章の意味がよくわかる。屈託のない人の辿る末路。ほんとうに純粋な人というのは、純粋であることすら知らない、その手前のひとなのかもしれない。

内的な屈折や屈託があまりに乏しいせいで、そのぶん驚くほど技巧的な人生を歩まずにはいられない種類の人々がいる。

女のいない男たち 独立器官 村上春樹 

 『木野』は浮気現場を目撃してしまい、離婚した男の再出発の話。示唆的な猫や蛇、シャーマンのカミタ、逃避先にまで追いかけてくる来訪者など、長編をぎゅっと圧縮した魅力がある。
 会いたいけれど、会いたくない。悲しいけれど、悲しくない。傷ついているけれど、傷ついていない。両儀的な感情を抱くとき、その底にあるほんものの感情から、逃げている面もあるのかもしれない。悲しむべきときに悲しむというのは、むすがしいことだから。

 

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