読書記録_ティファニーで朝食を

ティファニーで朝食を
トルーマン・カポーティ著
村上春樹訳
新潮文庫

 自由でありたい、といつも思う。なにかに縛られたくないし、なにも押し付けられたくない。なににも消費されたくない。そういう煩わしさから解放されたとして、わたしの芯となるものはあるのだろうか。自由でありながら、社会で真っ当にやっていくことは、自由を得ることよりも、むずかしいのかもしれない。『ティファニーで朝食を』を読んでいて、そんなことが思い浮かんだ。


『ティファニーで朝食を』は、自由奔放の代名詞のような女性ホリーの物語である。あとがきに村上春樹が書いているように、オードリーヘップバーンのイメージとはだいぶ違う。もっとセクシュアルで、不安定で、それでいて力強い。
 作中に、ブロンテの『嵐が丘』についてのホリーと「ぼく」の会話がある。これとまさに同じことが、『ティファニーで朝食を』でも起こっていそうだ。

「うん、まさに名作よね。『私の素敵な、向こう見ずなキャシー』。どれだけ泣かされたことですか。十回も見たわ」 僕はかなりの安堵を込めて「なるほど」と言った。その「なるほど」に、うわずった恥ずべき抑揚をつけて「映画か」という言葉が続いた。

ティファニーで朝食を P.99

 ホリーのどこがそんなに魅力的なのか、周りに集まった男性たちは彼女のどこに惹かれたのか、明示されてはいない。若くて美しいことのほかに。きっと無邪気な自由さや、それ故の危うさにあるのだろうな、と思う。ホリーの周りにいる歳上の男性たちからは、失われてしまったものだから。

 ホリーの生活は、「パパ活」によるものだ。とんでもないパイオニアである。パパ活をする男性の目的は、身の丈に合わないほどの大金を与えて、価値観や人生観まで変えてしまうこと、他人の人生をコントロールすることにある、と何かで読んだ。中村文則の『掏摸』に出てくる、召使いの少年の人生を設計する人の話に似ている。ホリーの場合はどうだろうか。彼女の人生を、価値観をコントロールすることなどできそうにない。彼女なりの軸がたしかにある。そうでなければ、当時の白人女性が、ブラジルやアフリカに行くなんてありえないだろう。

 読んでいて、そんな風に思えるのは、ホリーが生きたキャラクターであることに他ならないと思う。物語の進行上、都合良く名言を言うだけの存在ではない。オードリーヘップバーン以外で、誰がホリーを演じるのに相応しいか。村上春樹は思いつかないという。それほどに、人として、描かれている。

その店内の静けさと、つんとすましたところがいいのよ。そこではそんなにひどいことは起こるまいってわかるの。隙のないスーツを着た親切な男の人たちや、美しい銀製品やら、アリゲーターの財布の匂いの中にいればね。ティファニーの店内にいるみたいな気持ちにさせてくれる場所が、この現実の世界のどこかに見つかれば、家具も揃え、猫に名前をつけてやることだってできるのにな。

ティファニーで朝食を P.66

 この物語を象徴する一節を挙げるとしたら、ここだと思う。自由奔放に生きるホリーに、嫌なものから逃げる彼女に、静かでつんとすました落ち着きは、たぶん手に入らない。ティファニーで朝食をとることはできない。自由奔放と自由は、似ているけれど全然違う。男性たちも、ホリーも、それぞれに手に入らない何かに焦がれている。その切なさを、無駄なくオシャレにまとめあげている。


 他にもいくつか短編が収録されている。いまの時期は「クリスマスの思い出」が良い。祖母と孫くらいの年齢差の2人が、対等な親友の関係を築けている。貧しくとも豊かなこころ(演歌みたいな言い回しでいやなんだけども)。なにより、フルーツケーキが美味しそうで、クリスマスツリーを用意する心踊る空気が素敵だ。プレゼントの凧が、お別れに結びついているところもまた味わい深い。


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