”わかる・理解する”はゼロイチの話じゃない
もう4年も前に受けた授業に、いま再度向き直っている。
かつては、出来のすこぶる悪い学生として、難しい授業の内容に四苦八苦していた。
いまは、学生の面倒を見る立場であるティーチング・アシスタントとして、宿題の解説や生徒からの質問に四苦八苦している。
講義をするのは先生とはいえ、わからないことがある学生のフォローはこちらのお仕事。だから、ちょっとした先生みたいだ。
4年もの歳月は、出来の悪いいち学生を先生的なポジションにまで押し上げたらしい。そう思うと、少し感慨深くなる。
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この立場に立ってみて、つくづく思う。
「理解する」や「わかる」ということは、ゼロイチの話ではないのだと。
わかる・理解する、は、少しずつ歩みを進め、”深めていく”ことなのだと。
ゼロが完全にわからない・知らない状態、イチが完全にわかった・理解した状態だとして。
「わかった!」と、ゼロをイチにした気になっても、まだまだ理解の程度は浅い、なんてことがしょっちゅうある。
わかったと思った物事であっても、「ああ、そういうことか」と再度思わせられることが何度だってある。
4年ぶりに受ける授業は、あの頃と同じ内容であっても、新しい気づきにあふれている。ああ、そうか、と理解を深めていくことができる。
そして、”イチ”は、ときに途方もなく遠いのだと、思い知る。
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ずっと、よくできる先輩や先生のことは、”イチ”の人だと思っていた。
完全に物事を理解している人たち。
もちろんその人たちにもわからないことはあるのだろうけれど、ゼロからイチにすぐさまたどり着ける、スゴイ人たちだと思っていた。
でも、そんな人たちであっても、”イチ”ではないのかもしれないな、と最近では思う。
彼らは、ただ、少しでもイチに近づけていくように理解を深めていっているだけだ。
どれだけスゴイ人たちであっても、完全に何かを理解し切ることはときに難しい。
スゴイ人たちは、皆、”イチ”の掴みどころのなさをよくわかっているような気がする。
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もしかしたら、生徒さんからは、私や先生は”イチ”の人に見えるのかもしれない。
そうして、ときには私や先生のミスを見つけて、「なんやねんコイツ」と思うこともあるかもしれない。
私は、確かにいま教える側に立っている。
けれど、”イチ”ではないし、”イチ”は掴み所のないものだということもわかってきた。
だから、「先生なんだから完璧なはずだ」の思い込みは、大学院まで来たのならなくして。先生でも誰でも、おかしい・間違ってると思ったらガンガン指摘してほしい。
その主張がおかしかったら、こちらは「あなたのここはこういう理由で間違ってる」って返すだけだから。そしてそれにまた納得できなかったら、もちろんまた論理を返してもいい。
そうして、互いに理解を深めていけたら素敵だな、と思う。
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”理解”というものは、深めていくもの。
”イチ”は、たどり着いたと思っても、そうじゃなかったりする。
だから、面白い。
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