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「一、十、百、千 せんばやし」【note創作大賞エッセイ部門】

「プロローグ」

「あの、喫茶店あるやん。あそこもう店閉めはるらしいわ」
 大阪の母からLINEが届いた。混みあったホームで通勤電車を待っているときだった。昨年つまり2023年の5月、私は会社の東京支社に転勤した。東京での生活はまる1年を迎えた。その日は社内の会議の都合で、いつもより30分早い午前7時に起きた。まだ完全に目が覚めていない。眠たい。朝は弱い。瞼が重たい。

 私が生まれ育ったのは大阪。と言っても梅田や難波ではない。多くの人は知らない思うが、千林。「せんばやし」と読む。「せんりん」でも「ちはやし」でもない。京阪電車の千林駅。改札を出たら、そこが千林商店街のアーケード。駅と商店街が直通なのだ。
 商店街の入り口にはたこ焼き屋さんがある。今まで食べたたこ焼き屋の中ではトップ・オブ・トップに安くて、そして美味しい。香ばしい匂いに誘われて、いつも立ち寄ってしまう。たっぷりかけてくれるマヨネーズと濃いソースの味は昔と変わらない。懐かしい記憶を呼び覚ましてくれる。

「へえ、そうなんや……」とそっけなく母に返事した。私にはそういう言葉しか出なかった。ホームシックもあるのだろうか。ショックと言えば大げさだが、自分にとって大切な思い出の場所が失われてゆく切なさを感じた。



「積み重なり」

 母との買い物や祖母との散歩、千林商店街を毎日のように歩いた。魚屋さん、八百屋さん、かき氷屋さん、着物屋さん…… たくさんの思い出がある。思い出は1つ、2つと数えるものかどうかはわからないが、どの思い出も積み重なり合いながら、私にとっての千林を作っている。

「一、十、百、千 せんばやし~ 親しみの町、千林〈♪〉」
 アーケードで流れる千林商店街のテーマソング。私には変なくせがある。何かに集中するとき、もう少し正確に言うと、学校の試験でも仕事でも、タイムリミットがあって早くこなさなきゃいけないときに限って、千林商店街のテーマソングが頭の中を駆け巡る。無意識に口ずさんでしまうほど、こころにもからだにも染みついている。
 昨年の八月、帰省して祖母と商店街を歩いたときにも、昔っから変わらないテーマソングが流れていた。

「陽気なおばちゃんの着物屋さん」

 たこ焼き屋さんのすぐ横の路地を抜けると私がよく通った着物屋さんがある。ここは私の祖母が教えてくれたお店で、おばちゃんとその娘さんが2人で営んでいる。おばちゃんのお母さんの代から続いている老舗だ。祖母曰く、いつも陽気なおばちゃんのお喋り好きはお母さん譲りなんだそう。
 私が初めてこのお店を訪れたのは、成人式の振袖を選ぶためだった。一生に一度の成人式。優柔不断な私は何度もお店に通い、気に入ったものを試着してはそれに合う小物や髪飾りも、納得いくまで選ばせてもらった。ショッピングモールのきもの屋さんでは、1つ小物を増やすたびに高くなるのに対し、こちらはいわば選びたい放題。新作や流行りのものを次から次に着させてもらった。
「ああ、これは雑誌で賞をもらったんよ。普段は出さへんけど、着てもらえるんやったら、きっと着物も喜ぶわ」
 その着物は、真っ赤っ赤な生地に松の木とそれを縁取る金の刺繍がキラキラと輝き、ひときわ豪華で、思わず「これ!」と言った。成人式にはその着物を着た。
 その後、とあるコンテストへの出場をきっかけに着物を着る機会が増えた。着物の世界は幅広い楽しみ方があって奥深い。小紋や留袖、着るシーンや季節による選び方、小物との合わせ方や帯の結び方も何百通りもある。着物の見方が変わって、楽しくってたまらなくなった。
「最近の若い子は、面倒くさがってあんまり着いひんやろ。簡単に着れるもんもどんどんでてきてるけどね。昔の人はこれを着て出かけてたんよ」
 着物が好きになったのもこのおばちゃんが良くしてくれたのがきっかけの一つだ。私も好きになれる前は一着きるのも、一苦労だった。
「なんでも便利になりましたね」
「せやなぁ。でも、昔ながらの着物はやっぱりええもんやけどねぇ」



「思い出の人々」

「ここもシャッター増えたなぁ」と呟く祖母。
 閉まったシャッターには「貸店舗募集」のプレートが貼ってある。
 毛並みの綺麗な若い黒猫が目の前を優雅に横切る。猫の後について私も路地を歩く。道地沿いにある喫茶店のガラス製ショーケースはくもっている。中の食品サンプルはもう色あせていて通りから見る限り、店内に客はいなかった。洋服屋だった店がからあげ屋に変わっている。3階部分まで蔦に覆われた一軒家もなくなり、今では4階建てのハイツになっている。

「子供服の林さんは元気かなぁ」、子どもの頃によくしてくれたお店のおばちゃんをふと思い出す。
 祖母と買い物に来ると、祖母の友人とばったり会うことが多い。祖母は生まれも育ちも大人になってからもずっとこの街に住んでいる。友人知人の数も多いし、立ち話も長い。長話になることは、私にとって苦痛ではない。むしろ、知らない話が聞けて面白い。私のことを子どもの頃から知ってくれている人も多い。
 植田のおばちゃんは、とっくに過ぎているのに、「えぇ?もう大学も行ってんの? 二十歳になったん。大きなったねぇ」と言ってくれた。「もう25歳ですよ」と返すことはなく、「あっという間ですよねぇ」と答える。私はとっくに二十歳を過ぎて、四捨五入すれば三十路だ。祖母や地元のおばちゃんには、私がまだ小さな子どもだった頃が、つい最近のことに思えるのだろう。でも、20代半ばになると、何となくその気持ちがわかるようになってきた今日このごろだ。
 柴本のおばちゃんは、目がなくなるくらいにくしゃっと笑う様子がかわいらしかった。乳母車におはぎやひじきの炊いたんを入れて、よく持ってきてくれた。その柴本のおばちゃんも、最近見かけないなぁと思ったら、もう3年前には亡くなっていたらしい。

 3年前の春、祖母の夫、祖父は癌で亡くなった。肝臓癌だった。
 祖父は無口だった。最期の日々はしんどそうだったが、亡くなる前の晩も、何も言わなかった。無口な祖父とよく喋る祖母。昔はそんなアベックが多かったのかも知れない。




「親子三代千林」

「若い子は、肉とか油もん好きやからなぁ。青魚もよう食べや」、私は「そんないっぱい肉は食べへんで」と言う。青魚だけは昔っから苦手だが、祖母は毎回言う。
 祖母はまだ元気だが、年々認知症がひどくなっている。その祖母に、悩まされるうちの母。時々母は私に電話をかけてくる。私は祖母に電話する。たいてい携帯電話は携帯していないので、固定電話を鳴らす。
ガチャ、受話器を取った音が鳴る。
「やっほー」といつも通り声をかける。
「あら、かけてきてくれたん、うれしいわぁ」と祖母。
「今日何食べたん?」
「何やったかなぁ。ブリやったかなぁ」
 今の祖母からは想像もつかないが、若いころは強かったらしい。手のひらは普通の人よりも一回り大きく、小学校のクラスメイトからは「ヤツデ」と呼ばれていた。男子との喧嘩にも負けなしの強さだったそう。

 祖母は認知症を患ってもなお、食に対するこだわりは変わっていない。
自由に動けなくなった分、自分の娘である母に細かく指示を出す。買出しに行くときは、野菜はこのお店、魚はこのお店と具体的な場所までしっかり指定する。
 どのお店もお得だが、僅かな価格の差や旬のものをみて判断する。母も祖母の食に対するこだわりを信頼しているから不満はない様子。

 母にもお気に入りの八百屋がある。
 お店のおっちゃんは、母が立ち寄るたびに、「よっ、エース!」と声をかける。母は学生時代にバレーボールをやっていて、今でもママさんバレーを続けている。ポジションはアタッカー。バレーボールでアタッカーと言えばエースだからだ。
 店先には、キウイが一盛り、こだまスイカが2つで600円、りんごが5、6個で300円。どれも青いざるに盛られている。
 母が「りんごください」と言うと、おっちゃんは慣れた手つきでビニール袋を広げ、ざっとりんごを入れる。それだけでは終わらない。その横に盛られたバナナもサービスしてくれる。
「これ柔らかなってるから、早めに食べな~」
「ええの? いつもありがとう」
買ったものを自転車の前かごに入れて、次のお店へ向かう。お店のおっちゃんが「ありがとう、気いつけて帰りや。またね~」と声を掛ける。

 私にもよく行く八百屋さんがある。
 好物のいちごが安く売っているときは、つい箱買いをしてしまう。いちごを箱買いした日は、よくいちご大福を作る。いちご大福はかれこれ10年も作り続けている。初めていちご大福を作ったのは、高2のバレンタインデーだった。当時、お菓子を作り合って交換し合うのが年に一回の楽しみだった。みんなはチョコはもちろんのこと、小洒落れたクッキーやシフォンケーキを作ってくるが、私は何か違うものを作りたいと思っていた。
 そんなとき、家に帰ると母がスーパーのチラシを見て、「いちご大福美味しそうやん」と言った。そのとき、私は「これ!」と思い、「作りたい」と母に言った。
 次の日の放課後、母と一緒に買い出しに行った。必要なのは、いちご、白玉粉、白あん。いたってシンプルな材料だ。慣れないお菓子づくりだったが、クラスメイトにも好評だった。
 それから毎年、いちご大福を作るのが恒例行事になった。

「体育祭のあとのかき氷屋さん」

 東西にのびる千林商店街のメインストリートは、南北に走る京街道と交わる。この交差
点から南に進むと、自転車なら3分ほどのところに地元では有名な「カドヤ東店」がある。ここは同級生ともよく訪れた私のお気に入りのお店だ。
 私の一押しは「きな粉ソフト」。少し甘めのソフトクリームに、甘すぎないきな粉が絶妙にマッチしている。さらに白玉やあんこ、フルーツなどを好きなだけ追加することもでき、それでも500円をこえないのが嬉しい。
 暑い日には、かき氷とソフトクリームの欲張りセットが特におすすめだ。器にこれでもかといっぱいに盛られたふわふわ氷の中にソフトクリームが入っていて、正直食べきれないほどの量だ。食べ終わるころには夏でも寒くなってきて、外に出るとちょうどいい涼しさを感じられる。冷蔵庫でキンキンに冷えた野菜たちが、取り出されたときもこんな気持ちなのかも知れない。
 ほとんどいつも行列ができているこのお店。あまりにも人が多いときや店内で食べる時間がないときには、名物のアイスモナカを買って帰る。抹茶、マンゴー、バニラの三種類があり、シャーベットのようにさっぱりしていて、1つや2つは軽く食べられる。

 大人になった今でも、一緒に行く友人が2人いる。「2人もいる」と言うべきなのか、「2人しかいない」と言うべきなのかはわからないが、この歳になると前者のようにも思う。アオイとマオ、小中の同級生で、アオイは美容師、マオは幼稚園の先生だ。二人とも地元で働いていて、楽しそうにやっている。就職してからは、会うのが年に2、3回ぐらいになってしまったが、会えるときにはこのお店で近況報告会を開く。
「東京どうなん? もう慣れた?」、2人が口をそろえて言う。
「そうやなぁ、慣れたかなぁ」
「東京ええなぁ。私らも行きたいわぁ」
「うーん」、私はイエスともノーともつかない返事をする。
「まあ、ええか。溶ける前にはよ食べよ」

 3人で来るようになったのは中3のころ。体育祭の練習のあと、かき氷を食べにきた。体育祭そのものの記憶はあいまいだが、このお店に来てかき氷を食べたことは鮮明に覚えている。体育祭の準備をし、もう日が暮れてあたりが暗くなった時間帯に、友達だけで食べに出かけることが、私には大人びたことに思えて、何となく嬉しかった。
 別々の高校に進学した後も、3人で集まるときにはこのお店にきた。
「進路決まった?」
「私は美容系の専門やし、もう決まってん」
 アオイの進路が決まったと聞いて、マオと私はちょっぴり焦った。今となってはそれもちっぽけな悩みに思える。悩みごとの箸休めのようにかき氷を食べる当時の私たちに「そんなん、たしいたことないで。考えすぎたらあかんで」と言ってあげたい。時が経つと悩みごとの質も量も変わる。このまま一生悩みはつきないものなのだろうか?
 無事会社員になった今、仕事の悩みごとも増え、これを無事と言うべきなのかはわからない。上京した今も、このお店に集まるのは、懐かしい思い出が詰まっているから。ある種の現実逃避であり、私たちにとってシェルターのように感じる。





「エピローグ」

 ホームのアナウンスでハッと我に返る。すでにぎゅうぎゅう詰めの電車になんとか乗り込む。車内は満員で、私の後にもどんどん乗り込んでくる。何とか見つけたスペースにも、すぐに人は流れ込む。大阪の通勤電車もそれなりに混んではいるが、東京の混み具合に比べればたいしたことはない。
 都営新宿線 西大島駅から会社の最寄りである馬喰横山駅への電車通勤の日々。乗車時間は8分。「たった8分なら満員でも楽勝やろう」と思っていた。しかし、その考えの甘さを痛感している。
 途中の森下駅では大江戸線への乗り換えがあり、大勢が一気に乗り降りする。ドア脇のポジションを確保した私も一度ホームに降り、素早く向きをかえ、今度は反対側のドアを目指す。馬喰横山では森下とは反対側の扉が開くためだ。「あと2駅」、そう自分に言い聞かせる。もう少しの辛抱だ。
 長い8分間にも終わりが見えてきたが、馬喰横山駅で降りる人も多く、ホームも人でごったがえす。油断はできない。「油断?私は何と戦ってるんやろ?」
「東京の人は、毎日こんな生活やもんなぁ……」、東京に住んで1年経っても、「東京の人」と言ってしまう。
 ホームから改札を経て、階段を上り、やっと地上に出られた。
「はぁー」
 深呼吸なのかため息なのかわからない。まだ仕事すら始まっていないのに、すでに疲れ果てている私。

「一、十、百、千 せんばやし~〈♪〉」と口ずさみながら、今日も私は東京の街を歩く。

#創作大賞2024  
#エッセイ部門

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