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モラトリアムの蜘蛛7️⃣

頭では、ラッパの音が鳴り響いている。
体が軽く、心はもう飛び立っていた。
富士山へ行こう。
あの朝の占いが気になるし、日本一の山に一度登ってみたかった。

電車は使わない。
スマホも、置いていこうと決めた。
鎌倉からなんとか歩ける距離だし、せっかくだから思い切った旅がしたかった。

「そんなに心配しないで。」

母に声をかける。
長い散歩から戻り、いそいそと旅支度を始める息子を、母は不安げに見守っていた。

「でもそんな、急に富士山へ行くなんて。
歩いて行くなんて、どのくらいかかるの?」

「2、3日あれば着くよ。大丈夫だから。」

実際、この世界ではお金の心配はないわけだし、あまりにも大変なら電車なりタクシーなりを使おうと考えていた。
ロードオブザリングみたいな、壮大な冒険にはきっとならないだろう。

落ち着かない母は、先ほどからリビングとぼくの部屋を行ったり来たりしている。

「ほんとうに大丈夫?その、何か悩みとか、話したいことはない?」

悩みの種が、フクフクとした毛をさらに膨らませてぼくを気遣う。ぼくは思わず笑みをこぼし、答えた。

「大丈夫だから。学生最後の、自分探しってやつ」

自分探し。アンティークな響きだ。
ラジオでフォークソングを聴きながら、大袈裟なリュックを背負って田舎道を歩く自分を想像して、また吹き出しそうになる。

本当に気分が軽い。ここ数日、漬物石を背負ったように重たかった心が、ウキウキと浮上する。
自分の役割、すべきこと、そんなことはもうどうでも良かった。旅をすることで改めて、真っ当に迷うことができるような気がしていた。

翌朝、母が早起きして、おにぎりをたくさん握った。桃太郎のきびだんごみたいだ。
思ったよりも小さくまとまった荷物を背負い、外に出ると白い光が目に眩しい。

団地の人工的な緑地で、雀がせかせかと枝を飛び回っている。若いイタチが、犬の散歩をしている。
奇妙だけど、落ち着く故郷の朝。

「気をつけて。」

羊の母が、ヒトのぼくを抱きしめた。
シャンプーの香りが鼻をくすぐる。

柔らかくて優しい母の元を、ぼくは旅立つ。
永訣が、ずぐりずぐりと鼻腔を指す。

「いってきます。」

涙声。
春一番がぼくの背を強く押した。

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