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モラトリアムの蜘蛛5️⃣

父は自由人だ。
いつもはとにかくだらしないくせに仕事だけは大好きで、崩れた体に美しく仕立てられたスーツを着て、夜遅くまで働きにでていた。
何かの営業マンをしていて、在庫をかかえて帰ってくる日は深酒をする。

休みの日は1日中家でダラダラと過ごすか、思い立ったように散歩したり図書館で新聞を読んだりした。
ぼくは父と出かけるのが好きだったが、予定が読めないので、休日は暇を持て余すことが多かった。

その日は暑い日で、たぶん幼稚園は夏休みだったと思う。
ぼくが起きた頃には、父も母も準備万端で「海へいこう」と言った。

二人は揃いの麦わら帽子に白のTシャツ、青っぽいハーフパンツという装いだった。蝉の声がして、ぼくは夏が始まったんだな、と思った。
寝ぼけながら服を着替え、車に押し込まれる。
かろうじて、大好きな犬の人形(たしかスティックという名前だった)だけは、忘れずにポケットへ忍ばせた。

団地や住宅街を抜けると、しばらく海岸線を通り、山に入る。
緑一色だった景色が、急に大きくひらけて、都会の海とは違う大きな大きな青が目に飛び込んできた。

「うわー!」

ぼくの意識は覚醒し、海に恋をするように、窓から顔を突き出す。

「危ないよ!」

母の声と、父の笑い声。
体が熱く、気分が高揚する。

海に着くと、ぼくと父は一目散に駆け出した。
父がこんなにはしゃぐのは、後にも先にもこれが初めてだ。
ビーチは人で溢れていて、錆びたスピーカーからはラジオが流れている。カラフルなパラソルやテントが立ち並び、人々の喧騒に波音が混ざって理性が外れていく。

子供たちは完全にぶっとんでいた。
波が押し寄せるたびに笑い、砂を掘り、海水を飲んだ。ほとんど酔っ払った子供が、ウカれた柄の浮き輪でプカプカ漂うのをたくさん見かけた。
かく言うぼくも、もちろんラリっていた。
喉が張り裂けるほど笑い、叫び、泥を父にぶつけて怒らせた。

散々遊び終えると、カクンと体の力が抜けた。行きがけに食べたおにぎりが消化される音がする。

「かき氷でも食うか」
父がぼくを抱き抱えて運んでくれた。
砂浜に陣を取った母にたっぷりスポーツドリンクを飲まされ、凍ったお茶を脇に挟みながら、3人で海の家でかき氷を食べた。
本当は焼きそばかフランクフルトも食べたかったけど、急に父が2人で話そう、とぼくを誘い出す。
母は静かな顔で、遠くの波を見つめていた。

ぼくと父はビーチを離れ、人気のない磯へ歩き出した。
岩打つ波が思ったよりも激しく、喧騒が妙に遠く感じる。岩の上ではふな虫が、瞬間移動するように飛び跳ね、気持ち悪い。

「父さん、ここ、嫌だ」

ぼくは不安だった。
急に海へ連れてこられたこと、はしゃぐ父、遠くを見つめる母、宇宙生物のような虫が蔓延る岩場。
熱気がさーっと引く。冷静に状況を見返すと、何かがおかしい。

「母さんは好きか?」

ほとんど呟くように、父がきいた。
ぼくは母さんが好きだった。もちろん、父さんもだ。

「うん。」

答えながら、涙が滲む。

(父さんも好きだよ。)

終わりの予感がして、言葉は声にならず消えてしまった。
前を歩く父の背中は丸くて大きくて、水平線のようだった。

太陽が傾き、照り返しで父の体は半分になる。
どんどん、消失していく。

海の家に戻ると、溶けたかき氷が変な色をしていた。母は切なく笑い、帰ろう、と言った。

ぼくは疲れて、帰りの車で眠ってしまった。
家に帰ると父はおらず、母は部屋の荷物を整理していた。

「今日からふたりで暮らすのよ。」

夏が父さんを連れて行ってしまった。
耳の奥では、波の音がいつまでもリフレインしていた。

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