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「好き」だから

友人、家族、パートナー、推し...。
人はなぜ、誰かを好きになるのだろう。

LOVEとLIKE。
どちらの意味をとっても、その理由を究極的に突き詰めれてみれば“自分ではない他人だから”なのかなと私は思っている。

自分とは違う存在だからこそ、「この人なら、この人となら、自分1人ではできないこういうことができるかも」という想いも膨らむ。その結果、人は相手に期待することをやめられない
自分の思い描く期待を実現させようと、人々は相手に親切にしたり、お金をつぎ込んだり、環境を整えたりと様々なアプローチをする。

だから、自分の期待してたことと違うことを相手がしたとき落胆するのだ。当事者的には「こんなに愛情やお金かけたのに!」「裏切られた!」という気持ちが強くなるかもしれない。

でも忘れてはいけない。
友人にしろ、家族にしろ、推しにしろ結局はみな“他人”。自分が完全にコントロールできる存在ではないのである。
相手に何かを施したからと言って、相手が自らの思い通りになるということは残念ながらほとんどない。
しかも、それらの施しも本をただせば自分がその相手を好きだから勝手にやっているのである。
そこに見返りを求めるのはお門違いだと私は思う。

例えば、世の中にはやたらわが子の進路に干渉している親や推しの私生活に文句を言うオタクなどがいる。

この場合、相手のためを思って行動しているようで、実際のところ“こうであってほしい”という自分の理想像の押し付けになっている場合があるのだ。

『人からしてもらえる当たり前はない』
この言葉を肝に銘じ、陰でこそっと応援する。
どんなに好きな相手でも私は一定の距離を保つ。決して干渉しすぎることのないように心がける。

これこそ私が人付き合いにおいて一番重要にしていることかもしれない。

こう発言すると、“そのようにどんな人とでも少し距離を取るのは寂しくないのか”とたまに聞かれる。
確かに昔は若干の寂しさも感じていたけど、今はもう慣れた。
というのも、自分と相手は互いに独立した存在で、相手を尊重することが大事だということに気がついたから。

“常に一緒なわけではないけど、相手が辛かったり困ったりしているときにふと思い出して元気になれる存在”
私にとっての友人や家族、推しがそうであるように、彼らにとっての私もそんな存在でありたいと願っている。

とりわけ推しとの関係性は他と比べちょっと特殊だ。
なんせ自分以外にも“ファン”と呼ばれる人はごまんといるのだから。
私一個人のことを認知してる推しなんてほとんどいないはず。
ただ、たとえ自分がファンという集合体の一人にすぎなくとも、ファンという存在によって推しが元気になってくれればそれでいい。

私が友人や家族、推しの存在に心救われたように、今度は私も彼らの心の拠り所になりたいのだ。イメージは、ちょっと立ち寄ってふっと息抜きできるような東屋みたいな感じ。


誰かのために頑張るのではなく、自分が頑張っているから相手も頑張る。その逆も然り。
自分に関わる人々と自分とがお互いを高めあえればいいなと私は思っている。

いつか私の存在がちょっとでも誰かの励みになりますように。