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“変わらない”のもわるくない。

東京に来て早5年。
長いようであっという間だったこの期間、私は随分と成長した。

上京したての頃はあたふたしていた電車の乗り換えも、今では落ち着いてできる(とは言えいまだに改札で迷うことはあるが)。
渋谷、新宿、自由が丘、六本木など都内で有名と言われる場所にも行きつくした。
最近ではディープな場所を開拓しようと、休日に適当な駅で降りては散歩をするのがマイブーム。

あとは「言葉」だろうか。
地元にはもともと方言っぽい方言がなかったので、標準語もカンペキだ。
私もだいぶ“東京の人”になってきたのではと思う。

しかし。
久々に地元の友人と会ったり、オンライン飲みをしたりするたびにこう言われる。

「あなたって本当に全然変わらないね」と。

何年経っても友人たちにとって私は“地元にいた頃の私”のままなのだ。
ライフスタイルは東京に適応したが、確かに性格は昔のままかもしれない。
「変わらない」という言葉は良い意味にも悪い意味にもとれると思う。
少なくとも、言われた私自身は誉め言葉として受け取っている。
どこに行っても『私』を出せているみたいでなんとなく嬉しい。

私自身、人生で常に心がけていることがある。それが以下の3つだ。
「どこにいても、何事にも全力でいたい」
「とにかく色んな人を思いやり、相手を笑顔にしたい」
「どんなにつらくても最後までやり切る」

どんな時もこの思いを胸に行動するからこそ、地元の友人たちには昔の私のままに見えるのだろう。
私はいつだって直感を信じ、楽しいと思うことを第一優先でやってきた。

こういうのをイマドキ風に言うと“自分の軸・哲学”とかになるのだろうか。
でも私の場合、そういう大それたことではない。
ただ自分の中で“これだけは!”と思う小さなこだわりが少し多いだけだ。
かつ、一度これと決めたら絶対に曲げたくない性分だ。
要するに頑固で意固地なのである。

一方、周りの友人たちは着々と変化を遂げていく。
くだらないことで笑い合った中学・高校時代の地元の友人。
自由にのびのびと生きていた大学時代の友人。
当時は気が合っていても、久々に再会すると所々で相手の変化を感じる。

きっと友人たちは『大人』になったのだろう。
世の中を知ってく上で、働く場所や付き合う人たちに合わせて柔軟に性格を変えている。どれもこれも混沌とした世の中を生き抜くため。
時を経て友人たちはまっとうな「現実」を生きるようになっていた。

私は友人たちの生き方をリスペクトしている。
しかし、私自身はどうかといえばずっと『夢みる人』でいたいというのが本音だ。
何十年たっても自分が面白いと思うことに貪欲でありたい。

変わることももちろん大事。
自分だけの狭い価値観に囚われて、ステレオタイプな人間になってはもったいない。
常に新しい知識や考えを取り入れる柔軟性は必要不可欠だろう。

ただ、私は「変わらない」ということも大事だと思うのだ。
時代や場所に適応し次々に性格を変えることが才能なら、
ずっとそのままの自分でい続けることもまた才能だろう。
刻一刻と変わり続ける世の中で、少しぐらい変わらないものがあってもいい気がする。

ここでいう「変わらない」「染まらない」に近いのかもしれない。
東京らしさ、社会人らしさ...。
世に蔓延る沢山の他者本位な「らしさ」に染まらず、我が道を行く。
その方が、たとえうまくいかない場合でも自分のやったことを肯定できる気がする。
これは私の“小さな意地”だ。

私はこれから先も綺麗に効率よく生きることより、不器用でも自分らしく生きることを選ぶだろう。
そんな私を見て「いい年して何やってるんだろう」と思う人もいるかもしれない。
自分自身もたまに“もっとうまく生きれるのでは?”と思うこともあるし。
でも自分のポリシーを守りつつ「変わらない」という生き方が一番私っぽい気がするのだ。
だから現在もこうして私の思うように生きてる。
こんな私のことを見放さず、「馬鹿やってるけど、そんなあなたも好きだ」と言ってくれる家族や友人たちには感謝しかない。

いつか私が何かを成し遂げた時、誰かが私の姿を見て「アイツやるな!」と思ってくれたら嬉しい。
加えて、自分の行動が周囲の人にいい影響をもたらせていたらとても喜ぶだろう。

だから私は今日も“変わらない私”でいようと思う。 
自分の理想を追いかけ続ける私の存在が、いつか誰かの、そして自分自身の希望の光になれると信じて。